慟哭の刻







「あら、もう目が覚めたの?」
女の声が真澄の耳に届く。
覚醒しきっていない頭の中で、その声を反芻した。
瞬間、体を起こし、その声の持ち主を確認すると血の気が引く。
まず挑発的な赤い唇が目に入る。
切れ長の妖艶な瞳、肩まで伸びた茶色のウェービーヘアー。
その肩はなだらかな曲線を描く。
見知らぬ女。
そう、その見知らぬ女と同じベッドにいた。
情事の後のように、互いに身にまとっているものは一切なかった。
「君は・・・誰だ?」
「お言葉ね。昨夜のことをもうお忘れ?」
混乱する頭を、必死で働かせようとした。
確か昨夜はマヤと会った後、別れがたい気持ちを無理やり抑えて彼女を送って行った。
それからも彼女の面影が脳裏から離れず、後ろ髪を引かれる思いのまま
一軒のバーに入った。
そこでしたたかに飲んだ。
酒に呑まれたことなどなかった彼が、見事に呑まれてしまった。
記憶が徐々に鮮明になってゆく。
女の色香を体現している、この女を確かにそこで見た。
「君は・・・あの時、あのバーにいた・・・」
「そうよ、やっと思い出してくれたのね?」
真澄は愕然となる。

俺は・・・この女を抱いたのか?

マヤという恋人がいるのに、そんな不誠実なことをしたのか?
動揺が収まらない。
そんな真澄の首に、女は腕を絡ませる。
「とてもよかったわ。ねえ・・・またお腹が空いてきちやった・・・満たしてくれる?」
甘える女の声、舌なめずりする真っ赤な唇、男を誘う妖しい瞳。
男の本能が焔となり、下半身に血流が集中した。
我を忘れ、気づけば女を押し倒していた。

・・・そうだ、俺も満たされていないのだ。

マヤの心は手に入れたが、その身は未だ彼の所有ではなかった。
性急すぎる展開は、ふたりにとってよくない。
彼女を大事にする気持ちが先走り、いつも本当の欲望は抑えつけてきた。
マヤに嫌われたくなかった。
今ここでこの女を抱き、欲望を満たしてしまえば・・・
彼女の前で、しばらくは紳士の仮面を被っていられるだろう。
言い訳を胸に、真澄の指は女の肌をなぞっていく。
その豊かな両胸を鷲づかみにし、乳頭に舌を這わす。
「あ・・・ああん・・・」
やがて、女の切ない声が寝室にこだましていった。
その時、何かがばさりと落ちる音がした。
反射的にその方向を見ると、そこには・・・

「マ・・・マヤ・・・?」

顔面蒼白で、震えながら立ちつくす、マヤの姿があった。
大きな瞳をますます大きくさせ、ただ倒れないようにと、足を踏ん張っているようだった。
「ど・・・どうして、ここに・・・?」
真澄は茫然自失で、素朴な疑問しか頭に浮かばなかった。
気の利いた言い訳も弁解も、口をついて出てこない。
「あ・・・あたし・・・鍵を貰ったから・・・速水さんにお弁当・・・」
後は言葉に詰まり、そこから身動きひとつ出来ない。
動きの止まった真澄に、女も身を起こしマヤを見遣る。
やがて妖艶な笑みは、勝ち誇った笑みに変わっていった。
「ああ、この子なのね、あなたの恋人。まさかこんなネンネちゃんだったなんて・・・ねえ、あなた。あなたには男の人の生理なんて解らないのね?彼ね、あなたとこんな事出来ないって随分悩んでいたのよ。純情なのも程々にしないと・・・こうなっちゃう訳よ」
女は挑発するように大きく笑い、その腕を真澄の腕に絡め、彼のその裸の胸に舌を這わす。
「やめろ!!」
彼は乱暴に女の手を振り払うと、慌てて衣服を拾い集める。
その間も、女は忍び笑いを止めない。
「マヤ、すまない、赦してくれ。もう二度とこんな事はしない、誓うよ。だから・・・」
取り縋る様相を見せる真澄の目は、一心にマヤに向けられていた。
しかし当のマヤは・・・
その表情からは、火が消えたかのように一切の感情を無くしていた。
やがて無言で踵を返すと、一言も告げず部屋から出て行った。
一瞬の間に真澄の全てを悟り、そして全てを見限ったかのようだった。
静かに玄関のドアが閉まる音がする。
それは真澄にとって、マヤとの関係をも閉ざされた音に聞こえた。





あれからすぐに、幾ばくかの金を握らせて女を追い出した。
リビングのテーブルには、マヤが残していった弁当と手紙が残されていた。





『速水さんへ

マンションの鍵、ありがとうございます、とても嬉しかった。
これで本当に速水さんの恋人になれた気がします。
実はいつも不安だったの。
だって速水さんは大人で、あたしはこんな子供で、きっとあたしを好きだと
言ってくれたのも気まぐれだったんじゃないのかな・・・?って・・・
でもこうして鍵をくれたのも、あたしを恋人だと思ってるからでしょ?
あたしの宝物です。
大好きです。速水さん、大好き。
これからもずっと仲良くしてゆきたいな。
こんなあたしだけど、これからもよろしくお願いします。
お弁当、朝食代わりに食べて下さい。
眠っていたら、そっと置いていくつもりだけど。
もし起きてたら、嬉しいな・・・
                                  マヤより 』 







無邪気な彼女の手紙、不器用なりに一生懸命作ったであろう弁当。
見つめるうちに胸が痛み、まなじりが熱くなる。
こんな事で涙を流す自分が信じられなかった。
そんな自分に彼女が変えてくれた。
何よりも愛しい存在。
一番傷つけたくないはずの彼女を、一番残酷に傷つけたのは自分だ。
もうどんな言い訳も、弁明も、きっとマヤには届かない。
その純粋すぎる潔癖さが、真澄の不貞を許すはずなどなかった。
出社時間を大幅に過ぎても、彼は動こうともしない。
失ってしまったもののあまりの大きさに、脱力感以外、感じられない。
こんなにも愛しているのだ。マヤを・・・
流れる涙は、最後には嗚咽に変わっていった。





マヤの自宅アパートでは、麗が身支度を整えていた。
「ああ、マヤ、帰ったのかい?あんたも稽古があるんだろ?早くしないと・・・」
マヤの様子がおかしい事に気づき、麗は言葉を途中で切った。
その目は真っ赤に泣き腫らし、虚ろな視線は宙を舞っていた。
「どうしたんだ?速水さんと喧嘩でもしたのかい?」
労わる彼女の声に、マヤはふたたび泣き崩れた。
ここに戻るまで人前でも堪えることが出来ず、電車の中でも泣き続けた。
むせび泣きでは、決して感情の発散は出来ない。
マヤはここに戻って、やっと全ての感情をさらけ出せた。
彼女の泣き声が、部屋中に響き渡る。
そんな危ういマヤを、支えるしかできない麗。
頭の中が真っ白になる。
なのに、やり場のない感情は体内に留まり、どろどろとその身を駆け巡る。



胸が苦しいのか痛いのか、さっぱり判らない。

こんな痛みは、今まで感じたこともない。

息が上がったように、呼吸するのもままならない。

これは嫉妬なの?絶望なの?

世界が崩壊しても、ここまできっと嘆くことはない。

そう、たった今。

あたしの世界は、崩壊したのだから・・・



麗はひとしきり泣き続けるマヤの言葉を、辛抱強く待った。
だが泣き止んだ彼女は、空虚感を漂わせた表情のみを麗に見せ、それっきり俯いてしまった。
いくら麗がなだめようと、決して涙の理由は言わない。

たった一言。

「苦しい・・・苦しいの・・・」
そのまま倒れこむように麗の胸で瞳を閉じた。





定刻になっても出社しない真澄。
それを訝しげに思った秘書の水城は、携帯に電話をした。
しかし繋がる事はなく、速水の屋敷に電話をすることも躊躇われ、途方に暮れていた。
(そうだわ、昨日は確かマヤちゃんと・・・でもあのふたり、まだ清らかな関係のようだし・・・どこかに泊まったとは考えにくいわね。じゃあ、いったい何処に・・・?)
多忙な真澄の事。
今日もスケジュールが目白押しで、彼の指示を仰ぐ為に待つ社員の姿もあった。
(今日はマヤちゃん、稽古だったわね。まだいるかしら?)
思い余って、彼女はマヤのアパートに電話をする。
取り次いでもらい、彼女が電話口に出るのを待つ。
真澄の意向で、もうすぐ別のマンションに引っ越すマヤ。
そうなったら、もうこんな面倒な取次ぎも無くなる。
『・・・もしもし・・・』
「ああ、マヤちゃん、ゴメンね。聞きたいことがあるの。真澄さま、何処にいるか知らない?まだ会社に来ないのよ。もう私たちだけじゃ手詰まりなの」
しばらく沈黙が続く。
「マヤちゃん?」
『・・・知りません。あたしは何も知りません。ごめんなさい』
冷たく、そしてどこか乾いたマヤの声が、まるで音声のように聞こえる。
そして一方的に電話は切られた。
「ちょ、ちょっと、マヤちゃん!?」
ツーツーという無機質な機械音が耳に響く。
水城は呆然と受話器を握り締めていた。





いったい何本目のボトルだろうか。
ストレートで酒をあおり続ける真澄は、酔うことも出来ずにいた。
ただ、ただ、頭の中が濁ってゆくだけだった。
大きく見開かれたマヤの瞳。
それは真澄を責めるわけでもなく、絶望のみを映す瞳。
震える華奢な肩、それは今まで以上に儚げで、消え入りそうだった。
まるで壊れたレコード盤のように、彼の脳裏に繰り返し、現れては消えるその映像。
打ち消すことも出来ない、これは現実なのだ。
もう彼女は帰ってこない・・・
遠くでインターホンが鳴るのが聞こえる。
そうそれは聞こえるだけで、決して彼の関心を引くものではなかった。
目を閉じると、彼はソファに深くその身を預けた。





インターホンを鳴らす水城はじりじりしていた。
なんの応答もない。
ここに真澄は、いないのかもしれない。
しかしいつも使っている彼のプライベートマンション。
もうここ以外に、彼の存在を示唆する場所はない。
(仕方がないわ、本当はこんな真似はしたくないけど)
バッグからマンションの鍵を取り出す。
真澄が会社のデスクに置いている合鍵。
それを使いオートロックを解除し、中に入る。
漠然とした不安を感じる。
出社しない真澄、電話での冷たい口調のマヤ。
きっとふたりの間に何かあったのだ。
部屋のドアの前で一瞬躊躇したが、思い切ってキーを差し込む。
リビングのソファに、お目当ての人物の姿を確認すると、ほっと胸を撫で下ろす。
しかしそこに一歩足を踏み入れた水城は、事の成り行きに言葉が出なくなる。
無造作に転がる酒瓶。
いったい何本飲んだのだろうか?
「しゃ・・・社長?」
掛けたくもない言葉を、無理矢理、喉から吐き出させる。
「社長・・・いえ、真澄さま。どうなさりました?何があったのです?」
「あ・・・ああっ、水城くんか。何の用だ?」
濁った目を彼女に向ける。
「社長が、いつまでたっても出社なさらないのでお迎えに上がりました。しかし・・・どうなさったのです?この有様は。いつも節制を心掛けていらっしゃる社長とは思えませんわ」
「そうか?だが、きっとこれが俺の本性なんだろう。酒にも女にもだらしない・・・」
ふらりと立ち上がった真澄は、そのまま洗面所に向かう。
どうやら嘔吐感に襲われたらしい。
そんな姿に水城は、なす術もなく立ちつくす。
こんな真澄は、初めて見る。
いつも冷静沈着で、機械のように仕事をこなす真澄。彼が取り乱すのは・・・
唯一マヤ絡みだった。
それでもここまで荒れた姿など、見た事がない。
ふらふらと洗面所から戻った真澄は、そのままソファにどさっと横たわる。
これでは出社はおろか、何らかの指示すら出せないだろう。
水城はキッチンでタオルを濡らすと、そっと真澄の額に乗せた。
そして、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをグラスに注ぎ、彼に差し出す。
真澄は喉を鳴らしながら、勢いよく水を飲み干した。
そんな姿を横目で見ながら、水城は床に転がった酒瓶を集め、キッチンに戻す。
「・・・社長は本日、急病ということで全てを処理させて頂きます。何か私でお力になれる事は・・・?」
「いや・・・大丈夫だ。君には迷惑を掛ける。すまない・・・」
「それでは、携帯の電源だけでも入れておいて下さい。私にご用がおありの
時は、遠慮なさらずに・・・」
「わかった。ありがとう・・・」
真澄はそのまま目を閉じ、深く息を吐き出した。
一抹の不安は残るものの、これ以上の問答は彼にとって不必要だと考えた。
事情は分からないが真澄とマヤの間に、決定的な何かがあったのだ。
それはきっと取り返しがつかない位に深刻で、ふたりの関係が大きく変わる事なのだろう。
たとえ心配する気持ちがあっても、余計な詮索など出来ようもない。
あくまでも、これはふたりの問題なのだ。
水城は一礼すると部屋を辞した。





マヤはこの日、稽古を休んだ。
麗も彼女が心配で、バイトを休んで側にいるつもりだった。
だが、「大丈夫。ひとりにさせて」と言うマヤの言葉にしぶしぶ彼女を残し、バイト先に向かった。
部屋でひとりになったマヤは、今朝の出来事を反芻する。
ベッドで、見知らぬ女性と素肌で絡み合う真澄。
挑発的な女性の言葉。勝ち誇ったような高笑い。
初めて見る、マヤに懇願する真澄の姿。
自分が見たあれは、本当に現実?
もしかしたら夢だったのではないか。
真澄が自分を裏切る訳がない、ありえない。
自分で自分の世界を再構築しようと、マヤは抗っていた。
しかしどこかで妙に納得してしまう自分もいた。
マヤが紅天女に決定した日。真澄は彼女に今までの想いを告げ、ふたりは付き合いを始めた。
その後、真澄の婚約解消や、それに伴うゴタゴタはあったが、それを彼は誠意を込め、ひとつ、ひとつクリアしていった。
当然、紅天女の上演権と共に、彼女は大都芸能のものに、真澄のものになった。
よくよく考えれば、彼の思惑は見て取れるではないか。
自分は真澄に愛されていたわけではない。
やはり彼の仕事の駒のひとつではないのか。
落胆してどうする?
はなっから、全てが嘘だったのだ。
そう思うと、少しは胸の痛みが引いてゆく。
だが憎しみは不思議と沸いてはこない。
あんな男でも、自分はまだ愛しているというのだろうか・・・?
自嘲的な笑いが込み上げ、最後には高笑いになった。
涙はとっくに枯れていた。
馬鹿馬鹿しい。
最初から存在しなかった恋愛に傷つく必要なんてない。

あたしは傷つかない、傷ついてなどいない・・・

眉尻を上げ、呟く。

あたしは、傷つかない。傷つかない。

暗示をかけるように、呟き続ける。


アタシハ、キズツカナイ・・・
ケッシテ、キズツイタリシナイ・・・
ソウ、ユメマボロシナドニ、ココロミダサレタリシナイ。















麗はマヤが気掛かりで、バイトを早めに切り上げてきた。
「おかえり!!」
その彼女が目にしたものは、思いもよらぬマヤの明るい笑顔だった。
てっきり真澄から仲直りの電話でもあったのかと思いきや、どうやら違うらしい。
台所で夕食の支度をするマヤは、普段と変わりなく見えた。
「もういいの、つまらないことよ。心配かけてゴメンね」
晴々とした表情とは裏腹に、彼女の声色はまるで氷のように冷たい。
今までとは随分感じの変わったマヤに、麗は戸惑うばかりだった。





翌日から、何もなかったかのような顔をし、マヤは稽古に出た。
「年も、姿も、身分もなく、出会えば互いに惹かれあい、もう半分の自分を求めてやまぬという・・・はやくひとつになりたくて、狂おしいほど相手の魂を乞うると・・・それが恋じゃと・・・」
阿古夜であるマヤの熱のこもった演技。
誰しも引き込まれそうになる中、演出の黒沼だけは違った。
違和感を感じる。
そう今までのマヤの演技と、何かが違う・・・
昨日稽古を休んだ彼女に、黒沼は何も言わなかった。
しかし理由は分からないが、それがマヤの変貌のきっかけだったのではないか。
(このままでは紅天女は失敗する・・・)
得体の知れない不安が黒沼を包み込む。
次の日も、そして次の日も、マヤに感じた違和感は広がっていく一方だった。
彼女はのめり込むように、稽古に没頭している。
阿古夜と一真、ふたりの愛情交換が主となる中核のシーン。
その時、黒沼は悟った。
一真を見る目。
その目が冷め切っている。
愛の言葉を紡ぐその身から、一瞬、全てを拒絶するオーラを発する。
演技を進めれば進める程、ズレが大きくなる。
一真に愛を囁きながら、実は彼女の目は愛を語っていない。
愛を信じない者の目だった。
(やはりだ、これでは失敗は見えている)
この状態では到底、舞台と観客の一体感など望めない。
演技のズレが観客とのズレを生じさせる。
そうして、やがて失敗していった舞台を、彼は幾つも観てきた。
(この舞台は紅天女だぞ?万に一つのミスも許されない。ましてや失敗など)
忌々しさを隠し切れない黒沼は立ち上がり、台本で椅子をばしっと叩いた。
「今日の稽古はこれで終わりだ!!北島!!ちょっと来い!!」
その怒号に、一瞬、稽古場は静まり返る。
しかし、すぐにざわつき始めた役者達。
黒沼は彼らをジロリと睨みつける。
これ以上、雷が落ちての巻き添えはごめんだった。
皆一様に理由も分からず、しぶしぶと帰り支度を始めた。
「黒沼先生、いったいどうしたんですか?」
果敢にも、桜小路が彼に詰め寄った。
「お前には関係ない!!黙って帰れ!!」
「だけど・・・」
「うるさい!!」
一喝された桜小路は、ちらりと視線をマヤに向けた。
が、当のマヤは平然とした顔をしていた。
一切の動揺すら、彼に見せはしなかった。
桜小路は唇を噛みしめ、肩を落とし、帰り支度をする他の役者達に合流した。





静まり返った稽古場。
残っているのは黒沼とマヤだけだった。
マヤは気だるげに髪をかき上げ、やんわりと口を開いた。
「黒沼先生、一体どうしたのですか?私の演技に何か不都合でも?」
「お前、解っていないのか?」
「さあ・・・皆目見当もつきません。いつも通りの演技だと思っていますが?」
まるで華の如く、微笑むマヤだった・・・が。
何故、今まで気づかなかったのか。
その目に宿る暗い澱に、水底深く沈んでゆくようなその目の陰鬱さに・・・
黒沼は決心する。
「大都に行くぞ」
「大都に何かご用でも?もしかして私も一緒ですか?」
「お前は大都の所属だろう?社長から進言してもらう。このままではお前の阿古夜は死に体だ」
「分かりました、お供します」
マヤは口元に歪んだ笑みを浮かべ、格別拒絶するわけでもなく素直に従う。
彼女が着替えをする間に、黒沼は大都に来社の旨を伝える電話をした。
電話口に出た社長秘書の水城が、少し驚いたような声を出す。
やはりふたりの間に何かあったのだ、そして水城もそれに気づいていた。
更衣室から出て来たマヤと共に、黒沼は大都芸能に向かった。





黒沼から連絡をもらった水城は、真澄のスケジュールを調整し彼らの来訪を待った。
この三日間、真澄の焦燥ぶりはひどいものだった。
仕事を詰め込み、朝は朝で酒の臭いが残ったまま出社した。
さすがに苦言を呈してみたが、反応はほとんどなかった。
(きっとマヤちゃんにも影響が出ているのね。とりあえずふたりには話し合ってもらわなくては)
真澄に内緒で、マヤとのアポを取った。
前触れもなく会い、話をしたほうが、余計な詮索も入らず都合がいいだろう。
やがてマヤ達の来訪を告げるべく、内線が鳴った。





「社長、黒沼先生とマヤさんがお見えですわ。お通しして、構いませんわね?」
水城の言葉に、真澄の顔色が見る間に青ざめる。
しばしの沈黙の後、観念したかのように一言告げる。
「わかった。通してくれ」
どう対応していいのか、まったく見当もつかない。
だが、いずれは解決しなければならない問題である。
「よう、若旦那。元気か?」
陽気な黒沼の後ろに、マヤの姿が見える。
彼女は少し俯き加減で入ってきたが、すぐに頭(こうべ)を上げた。

微笑み・・・

そう彼女が浮かべた最初の表情は、微笑みだった。
「社長、失礼します」
マヤらしくない丁寧な挨拶だった。
それが、益々彼を混乱させる。
「今日は大都の社長としてのあんたに用がある。こいつの演技がおかしい。
きっとプライベートの問題だと思うが・・・あんたにも心当たりがあるんじゃないか?とにかく諭してやってくれ。俺は外で待ってるからな、終わったら呼んでくれ」
言いたいことだけを言うと、黒沼は部屋の外に出て行った。
いきなり、ふたりきりになった社長室。
重苦しい沈黙。
何から話していいものか、思いあぐねる。
「座っても・・・いいですか?」
沈黙を破ったのはマヤからだった。
「あ・・・ああっ」
軽く会釈をすると、彼女はソファの前までゆっくりと移動した。
「本当に黒沼先生の稽古は厳しいんですもの。月影先生といい勝負ですわ」
ソファにゆったりと腰を下ろす、足を組むと浅く溜息をつく、髪を指先で弄ぶ。
ほんの数日の間に、彼女の雰囲気が変わった。
そう、確かに変わった。
瞳の色が違う。
落ち着き払って、おどおどしたところが微塵もない。
「ところで社長、いかがいたします?諭すと言っても私自身、訳が分かりませんわ。社長もお忙しい方ですもの、いちいち所属女優の不調に、まあ黒沼先生いわく今の私がそうらしいんですが、とにかく、そういったものに付き合っていられませんよね?適当に時間を置いてから、先生を呼んでいただければよろしいのでは?私はその間、休憩できますし・・・」
「マヤ・・・」
淡々と言葉を綴るマヤの唇を、いたたまれなくなった真澄は自分の唇で塞ぐ。
社長などと空々しく呼ばれたくない。
唇を離すと思いのたけを込め、その腕に抱きしめる。
「頼む、赦してくれ。どんな償いでもする、どんな願いでも聞く、俺を赦してほしい。君がいなければ俺はだめになる。頼む・・・赦してくれ・・・」
素直な謝罪の言葉が口をつく。
だがマヤは無反応なまま抗うこともせず、ただじっとしている。
訝しげに彼女の体を離し、その顔を見た真澄の背筋が凍る。
そこには眉ひとつ動かさず、無表情なマヤがいた。
瞳には、何の感情も見受けられない。
「マ・・・マヤ・・・?」
怒りでもいい、罵りでもいい、何らかのリアクションがあれば対処も出来る。
しかし無反応の人間に、これ以上何をどうすればいいのか。
なす術もなく立ちすくむ真澄を尻目に、マヤはソファに座り直す。
「赦すって、何がですか?私は社長に赦しを請われる覚えはありませんわ。おかしなことを仰る」
彼女は憂いを帯びた表情に、幾分かの笑みを浮かべていた。
「君は・・・俺のマンションで・・・」
「ああっ、思い出しましたわ。これをお返ししようと・・・うっかりしてました」
彼女は、バッグから鍵を取り出す。
彼のマンションの鍵。
「私には不必要なものですから・・・」

微笑み・・・しかしその瞳は決して笑ってなどいない。

「君は・・・やはり赦してはくれないのか?勝手な願いだとは解っている。だが俺は君を失いたくない。もう一度やり直してくれないか?終わりにはしたくない・・・」
「始まってもいないものを、どうやって終わらせるんです?全て錯覚だったんです。とにかく、これ以上は水掛け論ですね。私、帰らせて頂きますわ。それでは・・・」
「ちょっと待ってくれ!!」
立ち上がる彼女の腕を、慌てて掴む。
彼は必死だった。
彼女を決して・・・放したくはなかった。
「考え直してはくれないか?俺に出来ることは何でもする。何でもいい。言ってくれ!!」
マヤは目線を少し泳がせ、何事かを考えているようだった。
「それでは・・・今後の“紅天女”と、私の処遇についてですが・・・」
「そんな話は、今関係ないじゃないか。君と俺についてだろ?」
「ああっ、そうですか・・・で、私の口から何を訊きたいと?」
「君と別れたくない、その為ならどんな事でもする。だから何でも言ってくれと・・・」
「社長の仰ることがよくわかりませんわ。償い・・・ですか?何故?」
「マンションで・・・君は見てしまったんだろう・・・あれは魔が差しただけなんだ。俺が愛しているのは君だけなんだ。信じて欲しい」
幾度も同じような言葉を繰り返す真澄。
その彼の言葉を、淡々とはぐらかす形になるマヤ。
堂々巡りで決着がつかない。
じりじりとする彼は、とうとう口にしたくない質問を彼女にぶつけた。
「俺と・・・別れたいのか・・・?」
「別れるですって?」
マヤは唇の端に笑いを浮かべ、真澄を一瞥する。
「何度か遊びに行って、何度かキスしたくらいで恋人ですか?なんだか違う気がしますが?それじゃあ、はっきり言いますね。私は社長に対して特別な感情は一切ありません。社長は社長で適当に楽しんで頂ければいいのでは・・?」
「マヤ・・・本気で言ってるのか?」
彼は狼狽し切って、上手く二の句が継げない。
その代わり体が勝手に動く。
ふたたびその唇を奪い、勢いづいて彼女をソファに押し倒す。
彼の体の下、マヤは表情も変えず見つめ返す。
真澄が戸惑うくらいに冷め切った表情だった。
ふいに彼女の顔付きに変化が訪れた。

微笑。

またもや不可解な微笑だった。
「社長は私を抱きたかったのですか?そうなら言ってくださればよかったのに・・・別に構いませんよ?割り切った付き合いですか?お互いに独身ですし、いいのでは・・・」
薄汚い、巷にいそうな女のセリフ。
マヤの一言に、真澄は頭に血が昇る。
気づけば、彼女の頬を平手打ちしていた。
(しまった!!)と思ったのは、その一瞬後だった。
小さな彼女の体は、ソファに打ち付けられた。
「・・・つぅ・・・」
「マヤ!!大丈夫か?すまない、俺は・・・俺は・・・」
マヤは真っ赤になった左頬をさすりながら、体を起こした。
「何をするんです?私は女優なんですよ。それでも芸能社の社長ですか?信じられない・・・」

――その瞬間

真澄はマヤとの関係が、修復不可能だと悟った。
彼女は完全に心を閉ざしていた。
そしてきっと、これからも彼にその心の奥襞を見せてくれないのだろう。

絶望。

こんな絶望感を味わったのは・・・初めてだった。
マヤと出逢い、愛し合う前の真澄は、仕事の成功のみが自己の存在理由であり、その他に付随するものは、まったく意味のないものだった。
彼女が彼を変えた。
義父への意地や復讐心で、駆り立てられるような人生を送ってきた。
そんな彼を、彼女は見事に変えてくれたというのに。
真澄は、そっとマヤの頬をさすりながら目を閉じた。
全てが・・・手遅れだった。
「マヤ・・・すまない・・・これ以上、君を困らせることはしない・・・言わないよ」
深く頭を下げる真澄。
それを冷静な目で見つめるマヤ。
彼女さえ自分の元に戻ってくれるなら、どんな事でもしようと思った。
不様と言われても、何度でも取り縋り、土下座さえ厭わなかっただろう。
大都芸能の仕事の鬼と呼ばれた自分が、嘘のようだった。
たとえ誰に何と言われようと、マヤさえ戻ってくれれば、それで充分だった。
恋に、女に溺れるなど、誰が想像できただろう。
まるで骨抜きだ。この少女に・・・
彼には抗えない、魔性でも秘めているかのようだ。
しかし、全ての想いが水泡と帰してしまった・・・

脱力感。

残されたものはそれだけだった。
「・・・お気が・・・済まれました?私、帰らせていただきますね」
「・・・ああっ・・・すまなかった・・・」
踵を返し部屋を出る彼女を、もう止める術など、彼にはなかった。
ぱたんと静かに閉められたドアを、真澄はいつまでも見つめていた。
その目には、悔恨がありありと浮かんでいた。
この期に及んでも、彼はマヤへの未練を断ち切れずにいた。
当たり前である。
仕事の成功のみが、己が全ての執着だった彼。
そんな彼が、それを投げ打ってでも手に入れたいと思った少女・・・マヤ。
当たり前といえば、当たり前。
彼女の存在が、彼の全てとスライドしていった。
彼女が彼の人生の全て。
いつも、いつも、固執する自分に気づく度に、彼はそれを失った時の事を考えた。
その都度全身に悪寒が走り、思わず身震いをしていた。
それが現実になった。
(マヤを失っては、生きていられない。俺はここまで弱い男だったのか?)
もう彼女は戻らない。
その事実が、真澄を蝕んでいく。
彼の精神(こころ)に、小さな亀裂が走った。
それは当の真澄本人ですら、自覚出来ていなかった。
この出来事が、彼の何もかもを狂わせていくことも・・・







―Fin―







2006年09月26日   written by Aileen
















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