ファム・ファタール



第1話 変貌







眩い陽光が瞼を貫き、その奥に隠された瞳を刺激する。
いかにも億劫だと言わんばかりに、速水は閉ざされた瞼をこじ開けた。
即座に左腕が重いことに気づく。
その重さの主は。

女だった・・・

軽く舌打ちし、彼は腕枕で眠っている女の頭から腕を引き抜いた。
昨夜、いたぶるように抱いた女。
いつの間に寄り添う形で眠っていたのか。
「うう〜ん・・・」
女は少し身動きすると、ブランケットを頭から被り、再び何事もなかったかのように眠りについた。
苛立ちと共に、女と夜を過ごしたベッドから身を起こした。
渇きを潤す為に同衾したのだ。

それは・・・心の渇きと言うべきか。

こんな女など、最早どうでもよかった。
刹那の渇きは満たされたのだ。
しかし・・・
新たな渇きが、もうそこまで近づいていた。
ブランケットからはみ出た、真っ白な脚。
欲情が下半身を支配し始めた。
寝返りをうつ女。その白桃とおぼしき臀部が、ブランケットから見え隠れする。
堪らず欲しくなる。
こんな場での抑制など必要ない。
今、欲するものを、己の欲のみを満たせればいいのだ。
速水は女の身を包むものを強引に剥ぎ取り、その上に覆いかぶさる。
「あ・・・んん、社長・・・」
女はすかさず反応し、彼を迎え入れる体勢を整えた。
たわわな乳房に顔を埋め、強く吸い付くと女の背中が仰け反り、あさましいまでの声を発した。
その声に嫌悪感を持ったのも、つかの間。
後は、女の嬌声に引きずられ、彼方を見ようと行為に没頭していった。

どうでもいい女と、どうしようもない時間を過ごす。

形を変えた、むしろそれは彼にとって自身を救済する行為でもあった。

貫き、勝手に果てると、速水は黙ってベッドから去っていく。
シャワールームに消えていく彼の後姿を見送る女には、ただの一瞥もくれなかった。
たとえ、その瞳に悲哀が浮んでいても、彼には関係のないことだった。




幾夜、幾度、こんな行為を繰り返せば満足するのか?




たった一つの希望を、自分の過ちから手放してしまった。
あの日から始まった愚行とも言える、現在まで続く行為。
潤ってもすぐ乾き、結局は繰り返すだけの、まさしく反吐が出そうな日常。




マヤ・・・・・・




熱い飛沫を全身に浴びる。
まるで“みそぎ”とも思える、この早朝の行為。
手に入れる前は、もう諦めも混じっていた。
永劫、届くことなどないと、どこかで納得しようとしていた。
だが一旦、手中に収めた宝を不注意から失ってしまったのだ。
後悔などと言う、生易しい言葉では収めることなどできない。
行き場のない感情だけが、彼の総てを構築していた。。
マヤとは体を重ねたことはないが、それでも唇の感触だけは鮮明に憶えている。
ただひとつ許されていた・・・くちづけ。
しかし、その官能を引き起こす感触も、他の女の肌にまみれておぼろげになりつつあった。
思い出そうとすればするほど、彼女は遥か遠くに去っていってしまう。
不実を重ね続ける彼には、彼女の幻影を追うことすら赦されないのかもしれない。
唇をぎりりと噛みしめると、速水はシャワーヘッドを投げ捨て、その場を後にした。




女が速水と入れ替わるように、シャワールームに姿を消した。
その隙に彼は、早々にスーツに身を包みベッドに幾枚かの札を残し、女には一言も告げずホテルの部屋を後にした。
次に速水を待っているものは、そして満たしてくれるものは・・・忙殺されるほどの仕事だった。
夜は女の肌でわが身と心を慰め、昼は昼で仕事を心の拠りどころにしていた。
呆れるほど増えた、酒量と煙草の本数。
睡眠すら事足らない状態。
わざとわが身をいたぶる風情の彼は、それすら気づきたくないのだろう。
ホテルの駐車場に停めていた車。その運転席にすかさず乗り込む。
アクセルを踏み込みと、急発進させた彼の車は、喧騒の渦巻く街中に飛び出していった。
何事もなかったかのように、他の車に紛れて“日常”へと帰還していく。
彼にとっての、つかの間の“日常”に。











そのホテルは、都内では一流と呼ばれていた。
日常とは違った場面を演出でき、そんな時間を満喫できる一種の社交場を兼ねてもいた。
しかし華やかな一面ばかりではなく、胡散臭い遣り取りも繰り返される場所でもあった。
女は約束の時間より幾分早く、待ち合わせに指定されたホテルのバーに現れた。
シンプルながらも胸元を強調した、深紅のカクテルドレス。
妖艶さを醸し出しながらも、膝丈のフレアということで何処か上品さも感じられた。
コスメもアクセも万全に、まさしくフル装備の状態であった。
これから会う人物は、それだけ彼女の女を主張したくなる相手であった。
気を抜けば、負けは目に見えているからだ。
お目当ての人物を探すには、少々薄暗いバー。
自然に、きょろきょろと辺りを見回す形になる。
店内を彷徨う女に投げ掛けられる、不躾な視線。
女にとってそれは誉れ高い勲章であり、いつものことだと、さほど気にも留めない。
ゆったりと腰を振り、そんな男達の間を熱帯魚のようにすり抜ける。
やがて、一番隅のカウンター席の一人の女性が目に入る。
ただカクテルを飲む。そんな仕草にすら嫉妬を覚えるくらい、奇妙な魅力を持っていた。
今夜の約束の相手であった。
世俗とは切り離された、いや、そこだけは別格とも言える不思議な雰囲気を身に纏った女性の姿。
女はごくりと生唾を飲む。
彼女は、絶対の服従を誓ってしまいそうな危険な女性だと、初めて会った時に感じた。
華やかに武装した女とは違い、実に飾り気のない黒のスーツ姿。
闇夜に紛れそうな色なのに、それが皮肉にも女性の姿を鮮明に浮かび上がらせる。
いやでも惹きつけられる、そんな人間が確かに存在すると実感させられる。
負けたくないと切実に感じるのは、女の宿業なのかもしれない。
呑まれないように、心が挫けないように、自身を叱咤する。
そんな女の視線に気づいたのか、女性はゆっくりと振り向き、顎で隣に座れと指示をした。
女は、そんな彼女の要求を苦々しく思いつつ、それでも素直に隣のスツールに腰掛けた。
彼女の意のままになることを、何処かで忌々しく感じていた。
女としてだけでなく、全てにおいて負けたくないと切に願った。
だが、それも虚しい攻防。
所詮は言いなりになるしかなかった。
何故なら、彼女は女の依頼人なのだから。

「うまくいったの?」
彼女はカクテルを飲み干しつつ、何気に言った。
「ええ、あなたのご所望通り、速水社長と寝たわ」
「そう・・・ご苦労様」
彼女は空になったカクテルグラスを、バーテンに差し出す。
新たに群青のカクテルを受け取ると、くいっと一気に飲み干した。
何処を見ているか判らない、虚空の瞳。
その目は何も映してないようだった。
それが、やおら女に向けられる。
次にはその瞳の色は、焔と化していた。
不覚にも女は、しばしその彩なす色に見とれてしまった。
「で・・・どうだったの?」
「えっ?なにが?」
女は彼女の問いの意が解らなかった。
彼女は軽く舌打ちする。
「速水に抱かれて・・・どうだったの?って訊いたのよ」
「どうって・・・」
「よかったの?」
辛辣な質問に女は眉根を寄せる。
そんなことまで答えなくてはならないのか?
しかし答えなければ、きっと許しはしないだろう。
「・・・よ、よかったわよ・・・」
女の答えに、今度は彼女の眉根がひくりと動く。
「あんなステキな男性、今まで会ったことないわ」
「そう・・・じゃぁ、速水はどうやってあなたを抱いたの?」
「なによ・・・そんなことまで訊くの?」
「もう一度、訊くわ。速水はあなたをどうやって抱いたの?あなたはどんな声で啼いたの?どんな言葉を囁かれたの?」
女はうんざりだという表情を浮かべるが、徐々にその情事の様を思い出し下半身がぶるりと震えた。
「とにかく表現しようもないわ。ちょっと乱暴だし、冷たいとこもあったけど。それを差し引いてもお釣りがくるくらいよ」
官能の夜が、女の肌にまざまざと蘇る。
速水の長い指が躯を這い回り、舌が女の敏感な部分を探り当て、いつ果てるとも判らない波が襲う。
穿たれ、突き抜ける快楽は、他の男では得たこともないものだった。
「もう一度・・・いいえ、何度でも速水社長に抱かれたい・・・」
女は意識をトリップさせ、すでにその目はとろりと蜜のように蕩けそうだった。
「解ったわ・・・」
彼女は女の前に封筒を差し出す。
「これを持って帰りなさい。あなたの役目は終わったわ」
女は差し出された封筒の中身を見ることなく、彼女に突き返す。
「いらないわ。私はお金より彼が・・・速水社長が欲しいのよ」
憤然とする女は目をぎらつかせ、彼女を見遣る。
そんな女の様相に、彼女はくすりと笑いを零す。
「速水は同じ女を二度は抱かないそうよ。それに、あなた程度の女なら吐いて捨てるほどいるわ」
「なんですって!!」
勢い余って、女はカウンターを力任せに叩く。
女性二人が座るカウンター席から、突然発せられた怒号。
魅惑的な彼女らに視線を送っていた男達も、何事かと身を竦ませた。
「どうしてあんたにそこまで言われなければいけないの?決めるのは速水社長でしょ?」
肩で息をするほど激昂する女は、引き下がる様子を一切見せない。
「そうね、確かに決めるのは速水ね」
彼女は一枚のメモ用紙をバッグから取り出し、女の前に投げて寄こす。
「速水の携番よ。掛けてみれば?」
女はそれを引ったくり、引き絞った唇から低く息を吐き出すと、自らのバッグから携帯を取り出す。
そして力任せに、携帯ナンバーを打ち込み始めた。
誰に言われなくとも、速水を自分のものにする自信はあった。
今までの経験上、男はすべからく自分を欲しがった。
自分に引き寄せるのは容易い行為だと、確信を持っていた。
それほど自分は、男にとって魅力的で、抱いてしまえば放すことなど出来ない女なのだ。
しばらくのコール音の後、男の、速水の涼やかな声が内耳に届いた。

『はい・・・速水です』

「あぁ・・・速水社長?私よ・・・お忘れではないでしょう?昨夜の・・・」
女は喜々として携帯を握り締め、猫撫で声ともとれる甘い声色を発した。

『・・・で、どういったご用件でしょう』

しばしの沈黙の後、速水は淡々と女に答えた。
その冷たい口調に女の躯は逆に熱くなり、ますます彼が欲しくなる。
「いえ・・・ただ、次のお約束をしていないなぁ・・・と思って」
女の声は媚を増し、相手に見えないにも関わらず体をくねらし始めた。

『次・・・?そんなものはない』

途端に口調の変わった速水は、実に素っ気無く言い放った。
女は慌てたように携帯を握り直した。
「えっ?どういうこと?速水社長は私が欲しくないの?」
狼狽した。こんな反応をもらったのは初めてだったからだ。
受話器の向こうでくすりと笑いが洩れる。
それは先程、隣に座る彼女が零した笑いと同種のものであった。

『何を勘違いしているんだ?昨夜の代価なら確か渡したはずだが?』

代価・・・その一言に女は頭に血が上る。
「わ・・・私は娼婦じゃないわ!!馬鹿にしないで!!」

『しかし、君は受け取ったんだろう?娼婦でなくてなんだと言うんだ』

勘違いとは恐ろしいものだな。君程度の女なら、何処にでもいる・・・と電話先で速水が高笑いする。
女は屈辱で身を震わせていた。

『失礼・・・娼婦は言い過ぎか?ではギブ&テイク・・・と言い直そう。とにかく・・・アレはアレで終ったことだ』

「速水社長・・・どうしてぇ・・・?」
自分を貶める男の筈なのに、それでも女は、なお縋る。
この男は最高の男だと直感し、どうしても手に入れたかった。
自分のステータスの為でもあるが、本能が、そして熟れきった躯が、速水を欲していた。
お願い・・・もう一度、会ってよぉ・・・と見得も外聞もなく、泣き縋る。
速水は、そんな女の哀れな声に動じることなど一切なかった。
しつこく食い下がる女に、速水はぽつりと漏らした。

『鬱陶しい・・・』
「えっ?」

『二度と電話など掛けてくるな・・・いいな?もし再び掛けてくるようなことがあったら・・・こちらもそれなりに対処する』

速水は最後に冷酷な言葉を残し、迷うことなく電話はぷつりと切られた。
女は二の句も継げず、呆然とするだけだった。
そんな女の姿を見る彼女は、忍び笑いを漏らす。
そして突き返された封筒を、再び女の前に差し出す。
「身の程知らずの、おばかさん。解ったら黙ってこの封筒の中身を持って帰るのね」
女はその美しい顔を屈辱の色に染め、思い切り歪めると、封筒を引ったくり無言で席を立った。
早足でこの場を離れようとするのが見て取れた。
プライドをズタズタにされた苛立ちが、全身から溢れている。
その後姿は、ただ浅ましい欲の塊でしかない。
「ふふ・・・やっぱり娼婦じゃない」
カウンターに向き直ると、バーテンに新たなカクテルを頼んだ。
今度はゆっくりと味わいつつ、その舌先で転がす。
「そう・・・速水は誰にも本気にならない・・・」
ぽつりと呟く言葉に、彼女は得心する。
そう、そうでなければならない。
それを確認する為に、わざわざ女を手配したのだ。
アルコールが染み渡るのと同時に、闇夜に紛れた悦に浸る。
喉元までせり上がる暗い焔が、彼女を支配し始めた。
暗黒に彩られた達成感は、決して希望には繋がらない。
しかし、そんなことは最早どうでもよかった。
くつくつと漏らす笑いは、陰鬱な彼女の一面であった。

「美弥、もう用件は終ったのかい?だったら・・・部屋に行こうか?」

女が去った反対方向から、一人の男が彼女に声を掛けた。
その手にはホテルのカードキーが握られていた。

「真哉?ええっ。そうね・・・もう終ったわ」
美弥は先程の陰湿な笑みを払拭し、妖艶な女の顔で目前の彼に答えた。
でも、もう少し飲みたいわ・・・と、艶やかな漆黒の髪を指先で弄びつつ微笑む。
軽くウェーブのかかった髪は、それでもサラリと流れるように落ち、美弥の表情を隠す。
隠された口元に歪んだ笑みが浮んだ。
それに真哉が気づくことはない。
女が座っていたスツールに腰掛けた彼は、そっと彼女の肩を抱く。
「ルームサービスを頼めばいいじゃないか。僕は・・・もう我慢できない」
美弥の耳元に囁く声は熱を帯び、彼の欲情の深さを物語っていた。
彼女は柔らかい溜息を零すと、目を細め、彼を見遣る。
美弥自身の躯も、火照りを感じ始めていた。
「解ったわ・・・」
残ったカクテルを一気に喉に流し込むと、真哉の腕をやわやわと撫でる。
熱にかられた瞳は潤み、半開きの唇からは甘い吐息が今にも洩れそうだった。
そんな美弥の様子に、真哉は本心からの喜びを隠し切れなかった。

「君の部屋・・・」

「えっ?」
真哉の一言に、不審な顔付きを見せる美弥。
「僕は・・・本当は君の部屋に行きたいんだよ。君は名前と携帯番号しか教えてくれない・・・僕は・・・もっと君を知りたい」
彼からの真摯な訴えだったが、途端に彼女の顔から表情が消える。
その瞳から熱情が一気に消え去り、すうっと氷のように冷めたものとなった。

「終わりね・・・」

「美弥?」
「もう終わりにしましょ。私、詮索されるのが大嫌いなの。最初から約束していたでしょう?まさか、お忘れじゃないでしょうね」
「どうしてだ、美弥。人を愛すれば、相手をもっと知りたいと思うのは当然のことだろう?」

「愛・・・?くっ・・・くくく・・・」

肩を竦め、笑い出す美弥に、真哉は唖然とするばかりだった。
やがて笑いは鳴りを潜め、残ったものは口元に浮かぶ、歪んだ笑み。
「愛なんて知らない。ただ楽しく遊べれば、それでいいんじゃない?」
「美弥・・・」
情けない声で彼女の名を呼ぶ真哉には解っていた。
彼女との付き合いの中で知った、その性格、割り切りのよさ。
一旦、見切ったものには、一瞥も投げてよこさない。
いらないと思ったものは、次々と切り捨てていく。
いやというほど、そんな美弥を見続けてきたからだ。
それじゃ・・・と、スツールから腰を上げた美弥の腕を、真哉は思い切り掴んだ。
「待ってくれ、美弥!!僕が悪かった。もう二度と言わない。だから・・・」
それでも懇願せずにはいられない。彼女を手放したくない・・・その一心で・・・
「縋るの?私に?」
見下ろす美弥の瞳には、明らかに侮蔑の色が浮んでいた。
それでも真哉は構わなかった。
「そうだ、縋るよ?それが何故いけない?君を失いたくない。僕にとって君は何者にもかえがたい女なんだ」
放さないという真哉の決意の強さからか、握られた美弥の腕は白く変わっていった。
それ以上に蒼白なのは、縋る真哉の顔色だった。
形のいい彼女の唇から嘆息が洩れ、黒目がちの瞳が細められる。

「しつこいわね・・・」

思いもよらない強い力で、真哉の腕が振り解かれた。
一片の情すら感じられないその行為に、彼はたじろいだ。
そして初めて知った。
自分達の付き合いが、あまりにも薄っぺらいものだったことを。
それは、まさに薄氷を踏むように、頼りなく、脆いものであったことを。
誰にもなびかない猫が、一瞬気まぐれに足元にすり寄り、撫でてやろうと手を伸ばした刹那、するりとすり抜け去っていく。
美弥は、まさしくそんな猫そのもの。
彼女を手中に収めることなど、所詮は不可能なことなのだと。
今更になって、やっと理解した。
真哉の見開いた目が徐々に細められ、やがては完全に閉じられた。
美弥が自分を蔑んでいるのが、目を閉じていてもはっきりと判る。
彼女にとって、最早彼は必要のない存在なのだと。
口外しなくとも、その気配だけで悟ることができる。
そう、まさしく悟った。

自分の負けを・・・

うなだれる真哉は、すでに口を開く気力すらなかった。
すっかり骨抜きにされていた、この女に。
思考も、肉体も、己の全存在も・・・・
掴みどころのない雲のような、見えない風のような、決して手の届かない漆黒の闇に輝く星のような。
そんな女に、総てを奪われていたのだ。
この腕に中に囲い、外界の空気に触れさすことなく、その魅惑の存在を己だけのものにしようと考えたのが、そもそもの間違い。
自分はあまりにも狭量で、彼女の隣に立つことなど。

きっと許されないのだろう。

脱力した真哉の耳に、遠ざかる靴音が聞こえる。
ほんの少し前まで自分のものだと思っていた、愛しい女の靴音。
間遠になったそれは、やがては喧騒に掻き消され完全に・・・消えた・・・

「み・・・や・・・」

視界がぼやけるのは涙のせいだと、気づくのにさほど時間は掛からなかった。
突っ伏したカウンターの上に残された、彼女のグラスにそっと指を這わせる。
これから、後悔と未練が繰り返し自分を襲うだろう。
いや、もう始まっているのかもしれない。
彼女の僅かに残された温もりを、無機質なグラスに求める。
その行為だけでも、如実にそれを物語っていた。

「・・・みや・・・」

繰り返し呟く愛しい女の名は、冷たいグラス同様なんの反応も示さずに、ただ虚空に放たれていくだけだった。











一度も振り返ることなく歩を進める美弥の目に、バーの出入り口にある、大きな水槽が瞬間映った。
華麗な熱帯魚が夜のネオンさながら、美しく舞うように泳いでいた。
縦横無尽なその様は、まるで今の自分のようだと思う。
思う様に生きる自身は、それでもこの熱帯魚とは違い、打算にまみれていることだろう。
ふっ・・・と浮かべた笑みは、やはりどこか歪んでいると思う。
ついっとバッグから携帯を取り出す。
それを惑うことなく、まるで餌でもやるように、自然な手つきで水槽に落とす。
ぽちゃん、という軽い音と共に、携帯はふわふわと右に左に揺れ、ゆっくりと水底に沈んでいった。
今まで明るかった液晶が瞬時に暗くなり、やがては音もなく沈黙した。
もう自分にとって必要でなくなった、男の為に用意した携帯。
役に立たなくなったそれは、男と同じく、たった今役目を終えた。

必要か、必要でないかは、自分が決める。

何故かその刹那、あの男の姿が脳裏を過ぎった。
事ある毎に、その面影が彼女を苛む。



『     』

からかうように発せられる、男が付けた彼女の愛称。
今の自分には、きっとそぐわないだろう。



『  』

甘い囁きを伴った、男の口から放たれる彼女の名前。
未だに体の芯が痺れるのは、何処かまやかしめいていると自嘲するしかない。



頭が痛む。



間断なく続く痛みは、起きることが予想されていても、やはり耐え難いものであった。
大きく息を吐き、ふらふらと歩みを進めると、壁に寄り掛かる。
頭をきつく壁に押し付け、痛感を麻痺させようと試みる。
やがて、荒くなる呼吸が徐々に収まりをみせると、最後に大きく息を吸い、再び吐き出した。
苛まれる痛みは、良心の呵責とは別物である。
これは自分自身の中に巣食う、あの男の存在が原因。
どうして消えてくれないのか、そう自問しても詮無いこと。
唯一、この苦痛から逃れる方法を実行するしかない。



「また・・・女を見繕わねば・・・」



あの男にあてがう為の女を・・・



きっとあの男は、今回と同じく気持ちも込めず、あてがった女を抱くのだろう。
「速水は・・・どんな女にも本気にならない・・・」

それは、まるで呪文。

彼女にとって、それは心を落ち着かす為のキーワードだった。
軋む精神を平常に戻すには、必要不可欠な言葉。
揺らぐ瞳に再び焔が灯る。
まろやかな頬が不自然にひくつく。

「その前に・・・」
中途半端に火照った躯が、どうにももどかしかった。
彼女はバッグから別の携帯を取り出す。
そして、アドレスからお目当ての番号をチョイスすると、ゆっくりと発信ボタンを押した。

『はい・・・芹沢です』
何度かのコールの後、精悍な男の声が彼女の内耳に届く。
彼女は、ほぅと息を吐き出すと、瞳を揺らめかす。
やがて、舌なめずりするように、ゆっくりと応答する。





「芹沢さん・・・私、マヤです」










ここは・・・誰も知らない夜の底。



闇に紛れ、隠された真実が、易々と露呈される場所。



歪んだ欲望に支配された人間が集う、奈落の底。










そして物語は、静かに・・・幕を上げる・・・







ファム・ファタール
第1話 変貌   

―Fin―





2006年09月26日   written by Aileen
















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