「天使の贈り物」 第1話 始動 姫川亜弓と北島マヤは試演でそれぞれの紅天女を演じた。 予想では亜弓の圧倒的有利との前評判であったが華麗な表現力で演じた亜弓とは異なり、マヤの紅天女は神々しいまでの存在感と神秘さを漂わせ会場にいるすべての観客達を惹き付け魅了したことにより、彼女が後継者に決定したのである。 後継者が決まるとすぐに多くの芸能社が活発に動き出した。 幻の名作の上演権を持つ北島マヤを獲得すればこの世界でその名を知らしめすこととなり仕事のオファーも山のように舞い込んでくる。 だからこそ、彼らは毎日のようにマヤのアパートへと足を運んだ。 そんな中たった一社、マヤの元に訪れない芸能社があった。 その世界では一流と言われる大都芸能。 本来なら一番に彼女を獲得する為に動くであろうと予想されていたにもかかわらず未だに何の動きも見せていなかった。 強大な力を持つ大都芸能が動かないうちに契約を獲ろうと他社は躍起立っていたのだ。 四方八方から張り巡らされた鎖に雁字搦めに縛られ苦しんでいる大都芸能社長、速水真澄。 彼はマヤの紅天女を観て自分の生き方によりいっそう疑問を持ち悩み苦しむことになった。 困難を前に愛を貫き通す阿古夜。 相手に見返りを求めずに愛する人の為に自分の身を捧げる。 それを演じたマヤの姿に釘付けになっていた。 阿古夜の台詞が投げかける視線が真澄の心を捉えて離さない。 しかし、現実世界でマヤが真澄を愛してくれる筈もない。 過去に犯した過ちが許されるものではないと充分に分かっている。 それでも彼女を望む心は止めることが出来ない。 目の前に迫った愛のない紫織との政略結婚。 鷹宮グループとの提携事業。 マヤへの想いを胸に秘め、それらをやり遂げると決意をしたというのに。 長年、誰よりも待ち望んできた彼女の紅天女を観た真澄の心は袋小路へと入り込んでいた。 溢れ出す行き場のない気持ちが真澄の行動力を鈍らせる。 試演からちょうど一週間が過ぎた頃、真澄は英介に呼び出された。 屋敷に帰り英介の部屋のドアをノックする。 「入れ」 低く威圧感のある声が真澄を招く。 「只今、帰りました。お義父さん、御用は何でしょうか?」 英介に呼ばれた意図は分かっていた。 義父の頭の中にあるのは、昔も今も唯一つ。 それに固執するように生きてきたのだ。 そして、真澄もその歯車に巻き込まれている。 「真澄。お前、紅天女の獲得はどうした? 動いていないのは大都芸能だけだと聞いたぞ。どういうことだ?」 「相手は北島マヤです。迂闊に動くことは出来ません。何せ、僕とあの子はいくつも因縁がありますからね。機嫌を損ねないように慎重に事を運べるよう準備しているところです」 真澄は実際、何もしていなかった。 いや、出来なかったと言うべきか。 しかし、英介の手前、密かに動いているように報告した。 真澄の言葉に英介は青筋を立てカッと目を見開く。 「嘘を吐くな! この一週間、お前は何もしておらんのだろう。どういうつもりかは知らんが、さっさと上演権を手に入れろ! どんな手段を使っても構わん。お前が動かぬなら儂が動くぞ。もし、北島マヤが大都を選ばなければ、この手で潰す!!」 英介は開いていた手をギュッと握り締める。 その手の中にマヤがいて、躊躇もせず潰される姿を想像した真澄は一気に背筋が寒くなった。 「なっ!!………彼女は月影千草の愛弟子であり、演劇の才能を持った天才女優なのですよ。それをあなたは潰すとおっしゃるのですか?」 真澄の問いかけなど無意味だと言わんばかりに英介の怒号が部屋に響く。 「大都芸能を興した理由を忘れたのか! 紅天女の上演権を手に入れ、大都で上演するために作った会社だという事を。女優は何も北島マヤだけではない。他にもいる。最大の目的は上演権の獲得だ。わかったら、さっさと手に入れろ!!」 英介の言葉を聞いた途端、真澄の中で何かが切れた。 何も受け付けないような無表情な顔になると冷静に言葉を発していく。 「彼女の紅天女を観ても、まだあなたはそんなことをおっしゃるんですね。…………わかりました。僕が必ず手に入れます。本当にどんな手段を使ってもいいのですね?」 「ああ、構わん」 ようやく本腰を入れる気になった真澄に英介は今回の件を任せることにした。 英介の返事に真澄は、しがらみへと繋がっているすべての鎖を断ち切る決心をする。 「それでは、僕がどんな手を使おうと上演権を手に入れることが出来たなら文句は言わないでください」 「わかった。儂は上演権さえ手に入ればいい」 真澄の目の色が変わったことに満足した英介は笑みを浮かべた。 跡継ぎとして意志を持たせずに冷酷になるよう育ててきたのだ。 目的の為なら手段を選ばない冷血漢。 目の前にいる真澄はそれに相応しい表情だった。 「それを聞いて安心しました。では、今から本格的に上演権の獲得に向けて動きますので失礼します」 真澄は英介の部屋を出ると足早に玄関へと向かい、自分の車に乗り込んだ。 一番落ち着いて作戦を練ることが出来る場所に行く為に。 それは、社長室。 すっかり明かりの消えたビルの最上階にある一室が深夜遅く光を放つ。 パソコンを起動し誰にも邪魔されることなく一人作戦を練る。 真澄が動かなければマヤが危険な目に遭うことは間違いないだろう。 英介は手段を選ばない。 若き頃より力は衰えつつあるが、影の人脈筋から力を借りさえすれば何でも出来るだろう。 やると言えば必ず実行する男だ。 英介の養子になってから身を持って体験している真澄は、自分の命よりも大事なマヤに危害を加えられる事を最も恐れている。 もし、そんなことになれば間違いなく気が狂うだろう。 愛するマヤを守る為に真澄が出来ることは何が起きても彼女を守れるように側にいること。 たとえマヤが真澄の事を嫌いであっても構わない。 上演権を手に入れ英介を満足させ、速水真澄としてマヤを守る為に彼はようやく動き出した。 ![]() 真澄はまず、紫織の元へ向かった。 紅天女の試演後、彼女からの連絡を仕事の忙しさを理由に全て断り一度も会っていない。 紫織の前で優しい婚約者という偽りの仮面を被ることに疲れたのだ。 だが、今日の真澄は違った。 たった一人の愛する女を守るべく非情な仮面を貼り付け鷹宮邸に乗り込んだ。 紫織との婚約解消を実現する為に。 「紫織さん、ご無沙汰しています」 紫織の部屋に入りソファに腰掛けた真澄は、目の前の婚約者に儀礼的な挨拶をする。 「真澄様。どうなさったのですか? お仕事が忙しいのでしょう。私とお会いする時間もないくらいに」 紫織の皮肉を込めた物言いに真澄は冷静な表情を崩すことなく口を開いた。 「ええ。いくら時間があっても足りないくらいです。ですが早急に処理しなければいけない案件が出来ましたので伺いました」 「なんでしょう?」 紫織は優雅に微笑んだ。 真澄の瞳にその微笑みは映らない。 精神を集中する為に瞼を閉じた真澄は最も厄介な鎖を切り離すべく非情に徹する覚悟をする。 心の奥ではたった一人の女性を愛していながら諦めるつもりで見合いをした。 見せ掛けの優しさに紫織が恋をしてしまったのは真澄の責任だ。 これから真澄がすることは間違いなく紫織を傷つけるだろう。 自分の優柔不断と不甲斐無さで招いた事態に今日こそけりを付ける。 ゆっくりと瞼を開いた真澄は紫織の顔を無表情で見つめると事務的に言葉を発した。 「僕と義父の長年の夢は演劇界の幻の名作『紅天女』を手に入れることでした。紅天女が北島マヤに決まった今、僕は彼女を妻にすることに決めました。ですから、あなたには大変申し訳ありませんが婚約は解消させていただきます」 「な、なんですって!! そ、そんなこと急に言われて、はい、そうですかと納得なんて出来ませんわ。……結婚式まで、もう1ヶ月もありませんのよ」 紫織は青褪め話す声が震えている。 彼女の反応が予想通りである真澄は、極めて落ち着いた声でその経緯を説明する。 「紫織さんは、御存じないかもしれませんが、僕は昔から大都芸能にプラスになる女性と結婚すると豪語してきました。今の北島マヤは大都芸能にとってプラスになる女性です。彼女は僕達親子が長年手に入れたかった上演権を持っている。彼女をおいて僕の妻に相応しい人はいないのですよ」 「私と結婚しても大都にプラスになる筈です。あなたがおっしゃっていることは建前だけだわ。本当は、あなたがマヤさんのことを好きだからよ! 私が気付いていないとでも思ってらっしゃるの!!」 紫織は真澄がマヤと一緒になる為に自分に都合の良い言い訳をしているのだと声を荒げた。 胸に荒れ狂う狂気を押さえ込むようにギュッと拳を握り締める。 紫織にとってこれほど屈辱的なことはない。 真澄は紫織の反論を全く気にすることなく顔色一つ変えずに冷静な声で話し出す。 「いいえ。僕と北島マヤの結婚は契約書を交わします。仕事の延長なのですよ。実際、紫織さんとの結婚に鷹宮グループとの提携事業が付いていたことはご存知のはずですよね。それと同じことです。ただ、僕達親子の中で優先順位が入れ替わっただけの話なのです」 「で、では…私は…あの……北島マヤよりも………劣ると?」 紫織は途切れ途切れに言葉を搾り出すだけで精一杯だった。 真澄に否定して欲しいと懇願の眼差しを向ける。 「そうですね。他の男性なら、皆さんが美しいあなたと鷹宮グループを選ぶでしょう。ですが僕達親子には紫織さんとの結婚は価値が無いのです」 「そ、そんな……。真澄様は私を、愛してくれていたのではないのですか?」 紫織は微かな希望を探し求めようと真澄の瞳の中を一心に見つめる。 しかし、真澄の瞳にはなんの感情も映し出されていなかった。 「いえ。会社の為の結婚でしたから。北島マヤとの結婚も上演権の為だけです。それに彼女は僕の事を憎んでいるのですよ。普通の結婚生活などあるわけないでしょう」 真澄は皮肉な笑みを浮かべると紫織を突き放した。 紫織とて、この結婚が会社の提携事業に絡めた政略結婚であることは分かっていた。 それでも、真澄の容姿や彼が見せる優しさに恋をした紫織にとって彼から告げられた事実にショックを受ける。 仕事の為ならどんなことでもする冷血漢。 世間で噂されている彼の話を紫織は信じていなかった。 彼は女性に対して紳士であり誠実で、初めて男性と付き合った紫織にとって何より憧れを抱いた人だった。 しかし、初恋にのめり込んだ紫織は本当の真澄の姿が見えていなかったのだ。 今、目の前にいる真澄は冷血漢といわれるに相応しいほど冷たい目をしている。 婚約者として優しい微笑を向けてくれていた彼はもういなかった。 このまま彼を引き止め愛のない結婚をしても幸せになれない。 そう思った紫織は零れる涙を隠すように俯くと婚約解消に同意した。 2006年11月22日 |
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