「天使の贈り物」 第10話 告白 真澄が目を覚ますと座っていたはずのソファに、横になって寝転んでいた。 体には薄手の布団がかけられている。 いつの間にか眠ってしまったようだ。 深い眠りについていたのか、マヤがいつ部屋に戻ってきたのかも知らない。 マヤはベッドに横になっていて、出産で疲れたのかスヤスヤと眠っていた。 真澄は起き上がるとベッドの側にある椅子に腰掛ける。 「……マヤ」 真澄は彼女の名前を静かに呟き、愛しそうにマヤを見つめた。 いつも触りたいと思っていた長い黒髪がシーツの上で広がっている。 そっと手を伸ばし優しく撫でる。 思えば結婚してマヤと一緒に、これほど長い時間を過ごしたことなどなかった。 彼女の側に居れば真澄は自分を抑えきる自信がなかったから、なるべく距離を置くようにしていたのだ。 真澄はマヤが妊娠について話した時のことをゆっくりと思い出す。 彼女は最愛の人の子供を妊娠したと言っていた。 真澄は、てっきりマヤが他の男に抱かれ子供を授かったのだと思い込んでいた。 しかし、先程の英介の話は、真澄には寝耳に水のことばかり。 まさか酔った勢いでマヤを抱いていたとは…。 それを黙って受け入れたマヤ。 マヤが、どんな気持ちで真澄に身を任せたのかと思うと辛かった。 英介の言うことが本当のことだとすると、マヤが言った最愛の人は必然的に真澄ということになる。 マヤは、自分は愛されないと言っていた。 そう思わせたのは他ならぬ真澄自身であるということに悔しさが込み上げてくる。 こんなにも彼女を愛しているのに、臆病であった為にマヤを苦しめてしまったのだ。 真澄が勇気を出して思いを告白しマヤと気持ちを通じ合わせることが出来ていれば、愛し合って子供を授かることが出来たのに…。 自分の弱さから彼女に気持ちを伝えることもせずに逃げてきた報いが、目の前に突きつけられる結果となった。 ![]() 「すまない。マヤ」 真澄はマヤを愛おしむように、そっと頬に手を添える。 彼の瞳から涙が零れ落ちた。 その一粒の涙がマヤの頬に触れた瞬間、彼女の瞼がピクピク動き出す。 ゆっくりと目を開けたマヤは、側に誰かがいることに気付く。 どれくらい眠ったのだろう。 夜の帳が下り真っ暗になった部屋には電気がついていない。 窓から射し込む月明かりが、その人の端整な横顔を照らしている。 そこには目を伏せ俯く真澄の姿があった。 「は、はやみさん?」 「マヤ。……すまない」 真澄は謝ると泣いている表情を隠すように顔を反らす。 真澄の見慣れた大きな背中は影を潜めている。 肩が小さく振るえ声を押し殺している真澄にマヤは戸惑う。 「…速水さん。…泣いているの?……どうして?」 真澄は何も答えない。 マヤはベッドサイドの明かりを付け時計を見る。 夜の10時を過ぎていた。 面会時間はとっくに終わっている。 「速水さん。こんな時間まで側に付いててくれたんですか? お仕事忙しいんでしょう? あたしなら、もう大丈夫だから帰ってもいいですよ」 マヤが病室に帰ってきた時、ソファで眠っている真澄を見つけ驚いた。 よほど疲れていたのだろう。 出産後、横になったままのマヤが看護師にベッドで運ばれて部屋に戻った音にも気付かず、壁に寄り掛かるように眠っていた。 安心しきった無防備な寝顔。 真澄がこんな場所で気を抜くなんて。 マヤは真澄が眠りやすいように、看護師に頼んで彼を横に寝かせてもらったのだ。 真澄の寝顔を見るのは二度目。 一度目は愛する人と間違えられ抱かれた夜。 行為の後、満足したかのように眠りに落ちた顔は、とても穏やかで。 最愛の人にすべてを許したような表情が、マヤには辛くて悲しかった。 そして今、目の前で眠っている真澄は、どこかホッとしたような口元が僅かに緩み優しく微笑んでいる。 何か嬉しいことでもあったのだろうか、それとも幸せな夢を見ているのだろうか。 その笑顔がマヤに向けられることなどないとわかっているから、ひたすら見つめ続けていた。 真澄の寝顔を見る機会は、もうないだろう。 絶対に忘れたくなくて必死に脳裏に焼き付けていたのだが、出産の疲れもあって、いつの間にか眠ってしまったらしい。 だから目が覚めた時、真澄が側にいてくれてマヤは嬉しかった。 忙しい真澄のことだから、目覚めたらすぐに会社に戻るだろうと思っていたのだ。 しかし、冷静に考えてみれば、今の状況はありえないことだと気付き落ち込む。 彼が側にいるのは、女優であるマヤの体を心配しているだけだ。 それに偽りとはいえ夫という立場上、世間体を気にして出産で大変だった妻を労わる良い夫を演じているからに違いないのだ。 これ以上、自分のことで真澄に無理をしてもらいたくはなかったから、マヤはあえて距離をおくようなことを言ったのだ。 追い返すようなマヤの言葉に真澄は傷つく。 「君は…。君は…俺と一緒に居たくないのか?」 「えっ?」 真澄の言葉にマヤは驚いた。 マヤを見つめる瞳は翳を帯び悲しみに満ちている。 こんな真澄の瞳を今まで見たことはない。 真澄はマヤの手を握りしめ真剣な表情で口を開いた。 「俺は、ずっと君と一緒にいたい。本当の夫婦として」 「……はやみさん?」 マヤは真澄の言葉に耳を疑い、彼の名を呟いた。 「もう一度、はじめからやり直そう。政略結婚なんかじゃない。本当の結婚生活を」 真澄のいつにない真剣な表情と、聞き間違いではなかった言葉にマヤは慌てふためく。 マヤは真澄に握られた手から逃げるように無理やり手を引っ込めた。 「な、何言ってるんですか。あたしたちは政略結婚なんですよ。速水さんが提案したんでしょ。それに速水さんは好きな人いるんですよね。あたしだって、好きな人います。その人の子供を産んだんです。だから、本当の夫婦になれる訳ないじゃないですか!」 深夜の病室であるにも関わらず、マヤの声は自然に大きくなっていた。 幸い特別室であった為、部屋も広く外に漏れることはなかったのだが。 そんなマヤに動じることなく真澄は冷静に言葉を繋いでいく。 「知っている。君の好きな人。…それが誰かも」 「だ、誰のこと知っているんですか?」 マヤは自分の気持ちを知られてしまったのかと不安に思いながらも、真澄に負けないように強い口調で聞き返した。 真澄は一度目を瞑り大きく息を吸い込むと、マヤの目を再び見つめなおし幾分抑えた声で話し出した。 「君の、最愛の人のことだ。普段は冷静でどんな仕事も、そつ無くこなすことが出来るのに、たった一人の、最愛の女性のこととなると何も手につかない馬鹿な男だ。鈍感で朴念仁。女性の気持ちなんてさっぱりわからない。そのくせ嫉妬深さは筋金入りだ。臆病で拒絶されることが怖くて告白さえ出来なかった弱い男だろ?」 「…………う、うそ!?」 マヤは口元を手で覆い小刻みに震えだす。 「義父に全部聞いた。子供が誰の子かも」 「そ、そんな……」 真澄に何もかも知られてしまったマヤは絶望する。 今まで隠していたことは、真澄の怒りを買うに違いなかったのだ。 真澄が酔っ払っているのをいいことにマヤは彼に身を任せたのだから。 マヤは、いたたまれなくなり真澄から目を逸らす。 震えが止まらないマヤの両肩を真澄が優しく掴む。 「マヤ。俺は昔からずっと君を愛している。それなのに気持ちを伝えることが出来なかった。だから政略結婚でもいいから君の側にいたかったんだ」 夢にまで見た真澄の愛の告白。 どうして…今なのだろう? もっと早くに伝えてくれたら、酔ったままの真澄に抱かれることなどなかったのに…。 後悔なんてしない。 あの時は、そう思って受け入れた。 それは真澄が愛してくれるとは思っていなかったから。 今、真澄の告白を聞きマヤは、自分がしてしまった過ちを悔やまずにはいられなかった。 マヤは、お互いに思っていながら、今まで口にすることが出来なかった悲しい結婚生活を思い返し涙が零れる。 「な、なんで……今頃…そんなこと言うの?」 「真実を知った今、もう間違えたくないんだ。今まで苦しめた分、傷つけた分、君を幸せにしたい。まだ、俺のことを愛してくれているなら、やり直して欲しい」 「でも…あたしは…あなたに黙って…あなたの子供を……」 マヤは何度も言葉を詰まらせると、深い後悔から最後まで言い切ることが出来なかった。 真澄はマヤの言葉から、彼女が自分に対して抱えている罪悪感を感じ取る。 マヤが悪いことなど何一つないのに…。 全ては真澄自身が蒔いた種なのだ。 マヤと向かい合うことを恐れ、この事態を招いた自分が彼女に償えること。 それは、マヤに包み隠さず全てを曝け出すことだと思った。 「マヤ。正直に言うよ。俺は君が妊娠した時、君を憎んだ。俺以外の男と関係を持ったんだと思い許せなかった。それに君の最愛の人への思いを聞き俺は打ちのめされた。マヤにそれだけの思いを寄せられている男を殺してやりたいと思った。その男の子供がマヤのお腹の中に宿っていると思うだけで気が狂いそうだった。だけど、義父に話を聞いて、それは全て俺のことで君は俺の子供を産んでくれたんだと知った。信じられなかった。君のあの激しい思いは俺に向けられたものだったと気が付いた時、俺は心の底から喜んだ。君の気持ちを知った今、俺はもう君を離すことは出来ない。いや絶対に離さない」 「ほ、ほんとうに……あたしでいいんですか?」 マヤは真澄の言葉が、まだ信じられなくて潤んだ目で真澄を見つめ問いかける。 「俺は昔から君だけが欲しかったんだ。マヤでないと駄目なんだ」 真澄は自分がどれだけ情けないことを言っているかわかっていた。 だが、今はカッコつけている場合ではない。 今、マヤを捕まえなければ、もう二度と手の届かない所へ行ってしまう気がしていたのだ。 そんな真澄の情熱が伝わったのかマヤは彼に向き合うように体を動かした。 「速水さん。…あたしもあなたが好きです。愛しています。 ずっと、ずっと……苦しかったの。結婚して一つ屋根の下で暮らせるようになって、あなたを見る度に胸が張り裂けそうだった。でも、側に居てもあなたは、あたしを女として見てくれなくて…。やっぱりあなたが欲しいのは紅天女の上演権で、女優の北島マヤだと思ったから…」 「違う!!……俺は、君と一つ屋根の下で暮らすようになって幸せだった。だが、そのうちに君の全てを自分の物にしてしまいたい衝動に駆られるようになった。君と過ごす時間は幸せだが男としての欲求を抑えるのは大変だったんだ。だから、なるべく君と過ごす時間を少なくするようにしてしまった。その頃だ。君と里美が共演する企画書を見て…。あいつにマヤを取られるんじゃないかって不安だった。酒を飲んで紛らわせようとした。心も身体も限界だったんだろうな。酔ったまま君を抱いていたなんて…。俺が好きなのは女優のマヤだけじゃないんだ。舞台を降りたそのままの君も好きだ。本当はずっと抱きしめたかった。俺が毎晩、君を抱く夢を見ていたなんて知らないだろう?俺はマヤが側に居てくれるなら他の何を失ってもかまわないんだ!」 真澄はマヤに本当の気持ちを知って欲しくて、なりふり構わずにその思いを伝えた。 「あたしは……あなたに愛されないのが辛かった。……そんな時だった。あなたが酔ってあたしを抱いたのは…。あなたはきっと愛する人だと思って、あたしのことを抱いているんだって。だから…あたしは代わりでもいいから、あなたに愛されたくて身を任せた。だってあたしが、あなたに愛されることは一生ないだろうから…。一度でいいから、あなたに女として抱かれたかったの。自分の部屋に帰ってからはベッドで朝まで泣いてた。 …でも、たった一度だけなのに、あたしのお腹の中には、あなたの子が宿っていた。嬉しかった。血が繋がった家族がいれば…あたしは寂しくなんかないって。だから、会長にお願いしたの……」 マヤは真澄の前で苦しい胸の内を懺悔した。 「………マヤ」 純粋で潔癖なマヤだったからこそ、自分がしたことが許せなかったのだろう。 真澄はマヤに何と言って慰めていいかわからず、苦しげにマヤの名前を呟くことしかできなかった。 マヤは自分が抱えていた黒い感情も続けて吐き出した。 「あの日のこと、今でも覚えてる。本当は、どこか遠くの地で、一人で子供を産んで育てようかと悩んでいたの。あなたに迷惑をかけると思って。でも、会長さんの話を聞いて、あたしが断ったら速水さんに他の女の人を連れてきて、子供を作らせるって言われて黙っていられなかった。書類上の夫婦でも、あたし、そんなの絶対に耐えられないと思った。速水さんから離れたくなかった!失いたくなかったの! だから、あたしのお腹の中に、あなたの子供がいることを話したわ。そうすれば、あなたの側にずっといられると思って。…でも、速水さんは覚えていなかった!」 最後の方は叫ぶように言うと、マヤは手で顔を覆い泣き出した。 ![]() 真澄はマヤの赤裸々な告白を聞き、どれだけ自分が愛されていたのかを知る。 こんなにも深く愛されていたのに、彼女を追い詰めるようにしてしまった自分自身を許せなかった。 真澄はマヤを包み込むように優しく抱きしめる。 マヤが吐き出した苦しみも悲しみも、すべてを受け止めるように。 真澄はマヤが泣き止むまで背中を摩っていた。 しゃくるように泣いていたマヤの呼吸が、次第に落ち着きを取り戻していく。 そして、マヤがようやく泣き止むと真澄は穏やかな声で語りかける。 「もう、いい。俺が悪かったんだ。今日、生まれてきてくれた女の子が、俺達の愛を密かに育んでくれていたんだな。最高の贈り物だよ。今日から、3人で新しい家族としてやり直そう。今度は二人で愛し合って子供を作るんだ」 「……ほ、ほんとに?」 「あぁ。俺は約束を守る男だろ?」 マヤはコクリと頷く。 真澄に優しく抱きしめられその温かさに包まれながら、二人にとってもう一つの繋がりである紫の薔薇についても聞かなければとマヤは思う。 今までに何度かそれとなく真澄に問いかけてみたことはあったけれど、いつもはぐらかされてばかりだった。 今、自分と向き合ってくれている真澄なら全てを話してくれるに違いない。 マヤは真澄の胸から顔を上げ真剣な表情で彼の目を見つめた。 「じゃあ、速水さん、本当のことを言って」 「本当のこと?」 「紫の薔薇の人は、あなたですよね?」 真澄はマヤの問いかけに絶句する。 マヤの真剣な瞳に、もう隠す必要はないことを真澄は悟った。 何年も隠し続けた事実を、マヤに知られることを恐れ続けた事実を、真澄は彼女の前で初めて認める。 「……そうだ。俺が紫の薔薇の人だ。……マヤ。…知って…いたのか? それで…俺が紫の薔薇の人だから…結婚を受け入れてくれたのか?」 言いたくて、それでも言えなくて隠し続けた年月の重さに真澄の口から出た言葉は震えていた。 たった一言を告げることが出来ずに苦しんだ日々が、走馬灯のように思い返される。 マヤは真澄から少しだけ離れ背筋を伸ばすと、しっかりとした声でお礼を言う。 「速水さん。紫の薔薇の人。今まで影から支えてくれてありがとうございました。どれだけ感謝しても足りないくらいです。確かにあなたが紫の薔薇の人だと知った時は驚きました。でも、思い返してみると速水さんだったんだって気付くことは結構あって。すぐに私の心が抱えられないくらい速水さんでいっぱいになったの。だけど、あの頃の速水さんは紫織さんとお見合いして、すぐに婚約したから…。あたしには絶対に振り向いてもらえないんだと思うと辛くて…。それでも、あたしにはお芝居しかなくて、阿古夜としてあなたに想いを伝えようと精一杯演じたんです」 「マヤ。君の阿古夜は素晴らしかった。試演を観てから君の阿古夜に捕われて、俺は身動きが取れなかったんだ。義父にマヤが大都を選ばなければ君を潰すと言われて…俺は気が狂いそうだった。マヤを守る為に鷹宮との婚約解消もすべてやってのけたんだ。あの時に素直に気持ちを打ち明けていたら、二人してこんなに苦しむことはなかったのにな」 真澄は自分の不甲斐無さを痛感し苦笑する。 マヤは、そんな真澄を否定するように小さく頭を振った。 「あたしも悪いんです。あなたに気持ちを伝える勇気がなかったもの」 「俺達は似たもの同士だったんだな。相手の気持ちばかり推し量って前に進むことが出来なかった。今日、俺はすべてを曝け出した。もう君に隠していることは何一つない。 こんな俺でも良かったら、これから先の未来を一緒に歩いてくれないか?」 マヤはたった今、聞いた言葉に耳を疑う。 「そ、それって…プロポーズ?」 「そうだよ」 真澄は真顔で平然と言い切る。 「もう、結婚しているのに?」 マヤはクスクス笑いながら問いかける。 「今日が俺達の本当のスタートラインだから。返事を聞かせてくれないか?」 「……嬉しい。これから先の未来をあなたと一緒に歩いていきます」 「もう、離さない。マヤも子供も俺が幸せにする」 真澄はマヤを強く抱きしめる。 「マヤ。ありがとう。俺の子を産んでくれて……嬉しかった」 「……速水さん」 真澄はマヤの頬を両手で包みこむと、彼女の柔らかい唇に自分の唇を重ねる。 それは結婚式の日に二人が儀式の為に重ねた嘘のキスではなく、お互いの深い思いが込められた真実のキスだった。 2007年 6月30日 |
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