「天使の贈り物」


第3話  契約





麗が家に帰った時、マヤは部屋に居なかった。
マヤが紅天女の後継者に認められてから、毎日のように訪れる芸能社の人間達。
今のマヤはどこにも所属していなかったので、仕事がなく舞台以外に趣味の無い彼女は家に居ることが多い。
そんなマヤの所へ連日、言葉巧みに話を持ってくる芸能社の相手をするのは大変だった。
麗が居る時はマヤが不在だと告げ、名刺を受け取りさっさと追い返すことが出来る。
しかし、麗も劇団の仕事があれば出かけなければならず、その時はマヤ自身に対応させるしかなかった。
そして何よりも気がかりだったのは、マヤが一番望んでいる芸能社が一度も訪れていないこと。
それは、麗にとっても不思議で仕方がないことだった。
芸能界で一番力を持つ芸能社であり、親子2代にわたって紅天女に固執していたのにも関わらず未だに音沙汰がない。
麗はマヤが何故、その芸能社に上演権を任せたいのか話を聞いている。
それは麗にとって驚くべきことであり、また昔から引っ掛っていた疑問をすべて解消するきっかけでもあった。




「ただいま」

やや疲れた声が麗の耳に届く。
マヤが無事に帰宅したのを確認すると、麗は胸を撫で下ろした。

「おかえり、マヤ。こんな時間まで何処に行ってたんだい?心配したよ」

「ゴメンなさい。実は……速水さんのマンションに行ってたの」

すぐに返ってきた返事に麗は驚き目を見開くと思わず叫んだ。

「何だって!! それで、マヤ。あんた何かされたのかい?」

マヤは麗の驚きように慌てて首を左右に振る。

「ううん。話をしていただけ」



マヤの思ったよりも落ち着いた声に、麗は本当に何も無かったようだと安心する。
麗はキッチンに行くと、外から帰ってきたマヤに温かいココアを用意した。
十月の中旬とはいえ、夜はかなり肌寒くなってきている。
車で送ってもらっていても体が冷えているかもしれないと思ったのだ。
それに速水と、どんな話をしてきたのかも気になっている。
日付が変わる前に帰ってきたから、今から話を聞きだすとなると寝るのは深夜遅くになるのは間違いないのだが…。
それでも、マヤの相談には乗ってやりたかった。
一人で抱え込んで苦しむマヤの姿は、もう見たくなかったのだ。
小さなテーブルに向かい合って座ると、麗はどんな話をしたのか聞くことにした。



「で、話って?」

「上演権のこと」

マヤはマグカップを両手で持つと呟いた。

「ふ〜ん。ようやく大都も動き出したんだね。それで、ちゃんと話せたのかい?」

「うん。大都芸能でお願いするって…」

「で、社長は引き受けてくれるのかい?」

「うん……」

麗は表情が曇ったまま歯切れの悪い返事をするマヤに、速水と話をした中で、まだ何か考えなければいけないことがあるのではと推測する。

「なんだい。ちゃんと話した割には、まだ何か悩んでいるようだね。私でよけりゃ言ってみな。一人で抱えていても仕方がないだろ」


マヤは少しの間、俯き考え込んだ。
何度も口を開きかけては閉じ話すことに躊躇っていたが、一人で考えて決断できるようなことではない。
それなら、麗の意見を聞いてから考えてもいいだろうと、マヤは真っ赤になりながらボソボソと呟く。

「麗、あのね。…速水さんが…結婚しようって……」

「えぇーーー! あ、あんた、告白したのかい?」

麗は今にも立ち上がらんばかりの勢いでテーブルに手をつくと、マヤのほうへと身を乗り出す。

麗が驚くのは無理もない。
マヤの真澄への恋心を知っている麗だからこそ、出てきた言葉なのだ。
マヤは、手を振って苦笑すると小さな声で否定する。


「ち、違うの。結婚は……政略結婚なの」

「政略結婚? どういうことだい?」

マヤの言葉に麗は引っ掛る。
結婚と聞いて最初は思いが通じたのかと思ったが、今のマヤを見るからにそれは全くない。
まして、「政略結婚」とマヤは口にしたのだ。
麗は眉を顰めると低い声で聞き返していた。

「あたしの持っている上演権を狙って、命を狙う人がいるかもしれないらしいの。速水さんの奥さんになれば、その人達が手出しできないだろうからって。あたしを守りたいから結婚を考えて欲しいって」


麗は少しの間、考え込む。
速水には確か婚約者がいたはずだ。
婚約披露パーティーの会場でマヤは速水と会い、紫織との仲睦まじい姿にショックを受けていたことを思い出した。
試演の稽古に身が入らないほど精神的なダメージを受けていて、黒沼から謹慎処分を言い渡されたのだから。

「確か速水さんは、紫織さんと婚約しているんじゃないのかい?」

「婚約は、解消したって言ってた。だから、何時でも結婚できるって」

マヤの言葉に麗はぎょっとする。
二人の結婚は実質、当事者同士の話し合いでどうこうなるものではない。
会社同士の提携事業が大きく取り沙汰され、連日紙面を賑わしているのだ。
業界最大手の鷹通グループと大都グループの提携事業とセットであった結婚が、そう簡単に解消できるとは思えない。
政財界を大きく揺るがすほどのニュースになるはずだ。
それなのに、世間でそんな話は一つも出てきていない。
速水のことだ。
水面下で話を進めているのだろう。
速水が一体、何を考えているのかわからない。
今まで速水は、マヤに対して大都芸能の社長としてわざと憎まれるような態度で接していたが、それはすべてマヤの為だった。
そして、影では惜しみない援助を贈りマヤを手助けしている。
今回の話もマヤの為なのだろうか?


「それで、マヤはどうしたいんだい?」

「あたしは……速水さんのことが好きだから…政略結婚でも側にいられるのならいいかなって」

麗は、小さく溜息をつく。

「あんた、それで幸せになれるとでも思っているのかい?」

麗の言葉が、マヤの心に突き刺さる。
マヤはビクッとなると、小刻みに震える体を抑えることが出来ない。
麗に言われなくても、真実から目を背けているのはわかっていた。
それでも、淡い期待を持たずにはいられない。
政略とはいえ、真澄がマヤとの結婚を望んでいるのだから。
マヤは全身の震えを抑えるように両手で体を包むと、自分を納得させるように必死に言葉を繋いでいく。

「だ、だって…本当は紫織さんと結婚して…あたしの手の届かない所に行ってしまうはずだったのよ。それが、政略でも…速水さんの奥さんになれるなんて……。だから、少しでも彼の側にいられるのなら……」


麗は少し呆れた。
お互いに愛し合って結婚するならまだしも、いくら愛している人に言われたからといって、政略結婚だとわかっていながら結婚するバカもいないだろう。
それでも、長い間マヤの側で彼女を見てきた麗は静かに見守ろうと思った。
昔からマヤは、自分で決めたことを最後まで諦めたことはない。
いつでも1%の可能性を掴んできたのだ。
今は政略結婚であっても、最後には1%の可能性を掴んで愛のある結婚に変わるかもしれない。
そんな僅かな希望と妹分の幸せを願わずにいられなかった。

「わかったよ。マヤ。あんたはもう大人だ。自分で決めたことなら、どんなに辛いことがあっても乗り切れるさ。最後までよく考えな」

「ありがとう。麗」

マヤは姉のように慕う麗が、自分のことを心配して話を聞き相談に乗ってくれたことに心から感謝した。








数日後、マヤは真澄の携帯に電話を掛け返事をした。

マヤに自分の提案が受け入れられるか不安だった真澄は、この数日間眠れぬ夜を過ごしていた。
待ちに待ったマヤからの連絡に、気持ちを落ち着けながら真澄は冷静に彼女の返事を聞く。

「速水さんの申し出、お受けします」

それは、真澄にとって嬉しい言葉の筈なのに手放しで喜ぶことが出来なかった。
お互いの気持ちが通じ合っての結婚でないだけに遣り切れないのだ。
本当に彼女と愛し合い結婚することが出来たなら、大手を振って喜んでいたことだろう。
しかし、彼にとってそれは一生叶わない夢なのだ。


真澄はマヤの返事を貰ってすぐ、迅速に準備を進めた。
マヤと大都での所属契約を交わし、紅天女上演の契約手続きも横槍が入らぬうちにやり遂げる。
そして、彼女との政略結婚の手筈を整えた。
準備が出来ると真澄は、社長室にマヤを呼び出すことにする。

水城から連絡を受けたマヤが、約束の時間に社長室を訪れた。
部屋に入ってきたマヤをソファに座らせると、真澄はテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろす。
真澄は手に持っていた書類をマヤの目の前に並べた。
それは、婚姻届と契約書。

真澄はマヤの瞳の奥を見つめ、彼女の意志を探りながら確認する。

「本当にいいんだな? 後悔するなよ」

「はい。後悔なんてしません。速水さんこそ、本当にいいんですか? あたしなんかと結婚して…」

「ああ」

真澄はマヤの目を見つめたまま返事をすると、マヤに聞こえないほど小さい声で呟いた。

「俺の気持ちは当の昔に決まっている」

「えっ?」

マヤは真澄が何かを言ったような気がして聞き返そうとしたが、真澄の冷静な声に阻まれる。

「早速、契約を交わそう」


まず、真澄が上着のポケットから愛用の万年筆を取り出し、婚姻届にスラスラと書き込んでいく。

その姿をマヤは、夢のような気分で見つめていた。
母の墓前で拾った紫の薔薇の人が落とした万年筆。
何度となく目にした彼の筆跡。
男性なのに繊細でしなやかな文字が書きこまれている。
速水への愛に気付いてから、どれだけ望んだことだろう。
彼の横にマヤの名前が並ぶ時は、契約書だけだと思っていた。
それが、伴侶として名前を並べる日が来るなんて。
愛のない偽りの結婚。
それでも、マヤは後悔しないと確信できた。
愛する人の側にいられるのなら。


真澄は書き終えると、万年筆をマヤに差し出す。
マヤはそれを受け取り、恐る恐る書き出した。

間違えないように、ゆっくり書き進めるマヤを真澄は優しく見守っている。
偽りとはいえ、マヤの伴侶になる日が来るとは夢にも思わなかった。
たとえマヤに愛されなくても、自分は彼女を愛し守り続けるだろう。
結婚すれば他の男に取られる心配もない。
側に居て彼女を見守り続けるだけだ。
そう、深く心に言い聞かせて。








契約を済ませた数日後、真澄は記者会見を開いた。
鷹宮との提携事業及び婚約を解消したことを発表し、マスコミ関係者達を驚かせる。
それだけならまだしも、マヤが大都芸能と所属契約をしたことも明らかにした。
必然的に紅天女の上演は大都芸能が取り仕切ることになり、上演劇場も大都劇場で行なうことが決まった。
二人の婚姻届はすでに役所に提出していたが、この場で発表をすることを真澄は避ける。
マヤとの結婚は本人にも了承を得た政略結婚であるが、マスコミをはじめ世間の目がマヤに対して風当たりが強くなるのを予測してのことだった。
結局、結婚式の一週間前に二人が式を上げることを正式に公表する。
ただし、この結婚に対しての誹謗中傷記事が出れば、大都芸能は徹底的に圧力をかけることをマスコミ各社に対して最初から提示した。
速水が、仕事の成功の為なら手段をいとわないのは周知の事実である。
彼の怒りを買うことを恐れたマスコミ各社は、静観するしかなかった。
これによって、二人の結婚に対してのそういった記事は出ることがなく、マヤの所へ取材陣が殺到することもなかった。



大都芸能社長と紅天女後継者である二人の結婚式、披露宴は試演から二ヶ月後、大々的に行なわれた。
紫織との結婚準備の際には彼女に任せきりにしていた真澄だが、今回は短期間にもかかわらず全てを自分で取り仕切り彼の満足いくものに仕上がる。
彼女のウエディングドレスを見立てたのも真澄だ。
マヤの白い肌は、ドレスの白に負けないくらい透き通っている。
清楚で可憐なイメージで作られた、この世でたった一つのマヤのオートクチュールドレス。
それを身に付け横に並んだ彼女の姿に、真澄は息を呑む。
ずっと大人になるのを待っていた。
そのマヤが、いつの間にか美しい女性へと成長し光輝いている。
食い入るように彼女を見つめていた真澄に、マヤが恐る恐る声をかけてきた。

「は、はやみさん。やっぱり、あたしにこのドレス似合ってませんか?」

自信なさげに問いかけてくる彼女に、真澄は目を細め優しく微笑んだ。

「綺麗だ。よく似合っているよ」

低くそれでいて涼やかな声が、マヤの緊張を解きほぐしていく。
真澄の言葉にマヤは頬を染めた。
そんな言葉を彼から聞けるとは思っていなかったのだ。
『馬子にも衣装だ』とからかわれると思っていただけに素直に嬉しかった。

真澄はマヤに肘を差し出し、彼女が腕を絡ませるとギュッと力をいれ式場へと歩き出した。


偽りの儀式の場所へ
結婚指輪という鎖で二人を繋ぐ為に…




2006年12月20日



…to be continued







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