「天使の贈り物」


第4話  苦悩





婚姻届はすでに提出していたが、結婚式を挙げるまで二人は別々の家で暮らしていた。
今日、無事に挙式、披露宴を終えた二人は、ホテルからまっすぐに速水の屋敷へと帰宅したところだ。
たった今から一つ屋根の下で暮らすことになる。
真澄は、すでに生活に必要なものをすべて揃えマヤの部屋を用意していた。
マヤが小さなボストンバッグを抱え速水の屋敷へと足を踏み入れると、使用人達が一斉にお辞儀をする。
慣れない雰囲気にマヤが戸惑っていると、真澄が彼らに彼女を紹介した。

「妻のマヤだ。慣れない屋敷で困ることも多いだろう。色々助けてやってほしい」

真澄に妻と紹介され恥ずかしさからマヤは俯く。
しかし、これからお世話になる人達に何も言わないわけにはいかない。
マヤは、そのまま頭を下げるとハッキリとした声で挨拶をした。

「よろしくお願いします」

マヤは挨拶を済ませると、真澄の後を足早についていった。
一度来たことがあるとはいえ、その間取りなど全く覚えていないマヤに真澄は一通り屋敷の中を案内する。
そして、二階のあるドアの前で立ち止まった。

「ここがマヤの部屋だ」

真澄が、ゆっくりとドアを開ける。
真澄に促され部屋の中に入ったマヤは、思わず息を呑んだ。
セミダブルサイズのベッドにドレッサー、二人がけのソファーにテーブル、奥には大きなクローゼットもありマヤを驚かせる。
白で統一された部屋は、穢れのない天使が羽根を休める場所のように思えた。

「気に入ってもらえたかな? 俺が持つマヤのイメージで用意したんだ」

「…速水さん。こんなに素敵な部屋……あたしには勿体無いです」

「気にしなくていい。俺が好きでやっていることだ。君に不自由な生活は、させられないからな。俺は隣の部屋だ。何かあったら声をかけてくれ。今日は疲れただろう。風呂にでも入って、ゆっくりと寝るといい」

真澄は早口ですべてを言い終えると、彼女の部屋を出て自分の部屋に入りベッドに横になった。
隣の部屋にマヤがいるのかと思うと自然と笑みが零れる。

「今日からマヤは、俺のものだ」

真澄は、左手薬指に光るプラチナの指輪を眩しく見つめながら呟いた。




お互いに仕事で多忙な日々を送る二人は、翌日から速水の屋敷での結婚生活をスタートさせた。
結婚と言っても政略結婚であり、二人きりで暮らすことにどちらも躊躇したからだ。
一緒に暮らし始めた二人が、食事を共に出来るのは朝食の時間だけ。
真澄が偶に早く帰宅した日には、夕食の時間も過ごすことはあった。
そんな二人だったが、朝の挨拶だけは欠かしたことはない。

「おはよう」「おはようございます」

「いってきます」「いってらっしゃい」


二人は一つ屋根の下で暮らすことになっても、一緒に居られる時間が限られているから少ない一時を大切にしていた。
しかし、二人の頭の中にはいつも『政略』という文字が浮かんでいる。
紙の上では夫婦でも、部屋は別々。
どちらも相手のことを狂おしく求めるほど愛しているのに、口に出すことが出来ない。
もっと側にいたいと思うのに、心も身体も距離を縮めることが出来なかった。
それでも公の場では、仲の良い夫婦を演じなければならない。
その機会は、すぐそこまでやってきていた。








当初の予定通り、紅天女の初公演が正月二日から始まった。
試演の時よりもはるかに演技に磨きをかけたマヤが演じる紅天女は、連日満員御礼で千秋楽まで長蛇の列が続き大都は、かつてない興行収入を納めることになる。
真澄も忙しい中、初日と千秋楽だけは時間をあけて、彼女の紅天女を観るとマヤの阿古夜に酔いしれた。


結婚してから初めて公の場に二人揃って出席したのは、紅天女初公演で千秋楽を迎えた打ち上げのパーティーの場であった。
今日の主役は勿論、紅天女のマヤである。
そして、エスコートを務めるのは本来なら一真役の桜小路と予想されていたが、結婚して初めてのパーティーということもあり、真澄がその大役を務めることになった。
世間では、マヤの阿古夜を射止めた真澄は一真だと呼ばれているのだ。

真澄はマヤと結婚するまで、パーティーに出席するたび何度も苦い思いをしていたことを思い出す。
あの頃は、彼女を遠くから見守る事しか出来なかった。
里美や桜小路は当たり前のように彼女の側にいて肩を抱く。
未だにその時の光景が目に焼きついて離れない。
彼らのようにマヤの側で支えているのが自分であればと、いつも夢見ていた。
今日は、誰に憚ることなく彼女をエスコートすることができる。

ただ気がかりだったのは、二人の心が通じ合っていないのに公の場では仲の良い夫婦を演じなければいけないこと。
真澄は、マヤを愛しているのだから何の問題もなく彼女を愛する夫として振舞うことが出来る。
しかし、マヤは……。
もう何年も、真澄のことを嫌っているのだ。
そのマヤが、真澄のエスコートを快く思わないのではないかという不安が頭を過ぎる。
刻々と時間が過ぎていく中、いつの間にかパーティーの時間がやってきていた。


マヤは、紅天女の打ち上げということもあって着物姿で登場した。
阿古夜を思わせる梅の木と梅の花をあしらった淡いピンク地の着物に、梅の柄の染め帯できっちりと纏め上げている。
すべて、真澄がマヤの為に用意したものだった。
紅天女の公演が正月公演だったこともあり着物姿で出席した方が、マヤの印象が良くなるだろうと思ったのだ。

真澄は、すぐにマヤの側まで歩いていくと片手を差し出した。
マヤは軽く微笑んで、真澄の手に自分の手を重ねる。
二人が並ぶと一斉にフラッシュが焚かれた。

マヤの着物姿を間近で見た真澄は、その美しさに目を細めていた。
普段の少女らしさは全くなく、艶やかな大人の女性として輝いている。
着物姿であるため、長い黒髪は結い上げられ、普段隠されている細く白いうなじが露にされている。
パーティー会場でなければ、理性を失って吸い寄せられるようにうなじへキスを落としていただろう。
真澄は、それをグッと耐えるとマヤの腰に手を廻しエスコートしながら順番に挨拶を交わしていく。
誇らしげに愛おしそうに彼女を見つめ微笑む真澄。

マヤは真澄を立てるように控えめに歩きながら、声をかけられれば主役女優として、社長夫人として笑顔で受け答えをし、皆を驚かせる。
真澄に招待された取引先の会社社長をはじめ、政財界の実業家達もマヤの堂々とした落ち着きのある態度に感嘆の声をあげていた。
今までのマヤなら、パーティーは苦手で壁に寄り添うことが当たり前だったのだ。
しかし、今日は真澄が側に居てくれる安心感から、マヤは誰にも引けを取らずに終始笑顔で彼に寄り添っていた。

パーティーの間中、二人はどちらも幸せを噛み締めていた。
この時だけは、自分達の気持ちを解放し幸せな夫婦として愛する人に寄り添っていられるのだから。
だけど幸せな時間は、すぐに終わりがやってくる。
会場に流れるアナウンスが二人の時間に終わりを告げた。



人の波を抜け会場を後にした二人は、迎えの車の後部座席に乗り込んだ。
帰りの車中で夫婦ではない二人に戻る。

真澄は初めてとはいえ、自分の妻としてマヤをエスコートできた喜びでいっぱいだった。
パーティーが苦手な彼女が真澄のエスコートに嫌な顔一つせず寄り添い、また真澄を引き立てるように側にいてくれたのだ。
シートに体を預け、疲れを見せるマヤに真澄は労いの言葉をかけた。

「今日は、ご苦労だったな。パーティーが苦手な君は疲れただろう?」

「いいえ。速水さんこそ、あたしなんかが社長夫人で物足りないですよね。…すみません」

マヤは目を伏せると頭を下げた。
すぐに謙遜するマヤに真澄は素直な気持ちを口にする。

「そんなことはない。君は充分にやってくれたよ。君が主役のパーティーなのに俺を立ててくれただろう。今後、俺の仕事もスムーズにいきそうだ」

「無理しなくていいですよ。あたしが、あなたと釣り合わないことくらい分かっていますから……」

真澄は、マヤに気付かれないように小さく溜息をつく。

「相変わらずだな。今の君は、日本を代表するトップ女優なんだぞ。どうして釣り合わないと思うんだ。もっと自信を持て」

「……はい」



夢から覚めた二人は、この時間が苦手だった。
ありのままの気持ちで接したいと思うのに、どうしても一線を引いた言葉の掛け合いになってしまう。
屋敷までの道のりが永遠に感じられるほど遠い。

『もし、気持ちを打ち明けることが出来たなら……』

と何度思ったことか。
そんなことをすれば二人の関係は壊れてしまうと思っているからこそ、契約で交わされた結婚生活にしがみ付くしかなかった。








結婚して三ヶ月。
二人の関係は、何ひとつ変わっていない。

クリスマスは、お互い仕事が入っていて一緒に過ごすことは叶わなかった。
しかし、この期間に二人が告白する機会がなかったわけではなく、何度かチャンスはあったのだ。


真澄はマヤの誕生日に、夫の立場を利用して初めて彼女にプレゼントを贈った。
彼女の誕生石であるアメジストのリングを。
二人の結婚を直前まで公にすることを控えた真澄は、マヤに婚約指輪を贈っていなかったのだ。
マヤは真澄からの誕生日プレゼントに、目を丸くしながらも笑顔で受け取ってくれていた。
しかし、その時に真澄はマヤへの思いを伝えようとはしなかった。

一方のマヤは、政略とはいえ結婚して同じ屋根の下で暮らせば何かが変わるかもしれないと淡い期待を持っていた。
少しは自分に目を向けてくれるかもしれないと。
バレンタインデーには、勇気を出して真澄に手作りチョコをプレゼントしようかと悩んだくらいだ。
結局、マヤは仕事が忙しく関係者達への義理チョコと甘い物が苦手な真澄の食べられそうなウイスキーが入ったチョコレートを購入して彼に手渡した。
忙しい真澄の頭の中にバレンタインデーの行事が入っているわけもなく、最初は「なんだ?」と驚かれてしまう。
それでも今日は何の日か説明すると、真澄は目を細め「ありがとう」と受け取ってくれた。
マヤなりの真澄への愛情表現だったのだが、言葉で伝えなかったこともあり真澄にその真意は伝わるはずもない。


月日だけが過ぎた書類上の夫婦関係に、二人は苦しめ始めていた。
真澄は一つ屋根の下にマヤが居るのに、手を出すことも出来ずに悶々とした日々を過ごす。
少しでもマヤと同じ場所に居ると自分を抑える自信がないので、朝早く仕事に出かけ、夜遅く帰るようになっていた。
マヤの側に居られることを望んだのは真澄自身である筈なのに、それは彼の心と身体を苦しめるだけであった。
マヤには手を出さないと約束したものの、何よりも彼女の心と身体を求める激情は日に日に激しさを増している。
――全てを手に入れてしまいたい
そんな衝動を押し隠しながらマヤの側に居ることは、体中の全神経を使わなければならず真澄の疲労は計り知れなかった。


マヤも三ヶ月経って、何も変わらないことに絶望する。
最近では、朝ですら真澄と顔を会わす機会がなくなっていた。
朝食の時間だけでも一緒にいられることに喜びを見つけていたマヤにとって、今の状態は苦痛でしかない。
やはり真澄が欲しかったのは、紅天女だけなのだ。
紅天女の後継者を守る為の結婚。
左手の薬指につける結婚指輪には、「聖なる誓い」という意味が込められている。
しかし、偽りの結婚をしたマヤの左手薬指に光り輝くプラチナの指輪は…契約の証。

女優としてのマヤに危害が加えられないようにしただけのこと。
マヤ自身との結婚ではないということをつくづく思い知らされた。



英介は二人が結婚してから、ずっと別々の部屋で夜を過ごしていることを知っていた。
上演権を手に入れることが出来れば何も言わないと約束した手前、真澄が短期間で鷹宮との婚約を解消し北島マヤと結婚するとの事後報告を受けた時には愕然としたものだ。
真澄が昔から北島マヤの女優としての素質を買っていることは充分理解していたから、彼女を守る為に政略結婚をしたことはすぐにわかった。
二人は戸籍上、夫婦であるが、それ以上の関係に進んでいない。
英介としては、長年の望みだった紅天女を真澄が手に入れた事を高く評価している。
次に英介が望んだものは、未来の大都を背負う跡取りであった。

英介は思う。
真澄ほどの男が何故、マヤに手を出すことが出来ないのか。
あいつに口説かれれば、普通の女なら抱かれたいと思うだろうに。
やはり、マヤの母親を死に追いやってしまったという負い目が、あいつの中であるのだろう。
それとも、子供っぽいマヤを抱く気にはなれないのか。
どちらにしてもこのままでは、跡取りを望むことは出来ない。
真澄は頭脳明晰、容姿端麗であり、マヤは月影千草が唯一認めた天才的な女優である。
もし、この二人に子供が出来れば、どちらに似ても大都に有益をもたらす事は間違いない。
素晴らしい素質を兼ね備えているはずだ。
新たな目標が出来た英介は、真澄に発破をかけることにした。








仕事から帰ってきた真澄を英介は自室に呼び出した。
真澄が部屋に入ってくると、早速、本題を切り出す。

「真澄よ。お前はマヤさんを抱かんのか?」

「な! 何を言い出すんですか、お義父さん」

英介の突然の呼び出しに何事かと訪れてみれば、いきなりとんでもない事を訊かれ真澄は動揺する。

「お前達が夜を共に過ごしていないことは知っている。だが、政略結婚とはいえ、お前達は正真正銘の夫婦だ。マヤさんもそれを承知で結婚したのだろう。何故、手を拱いているんだ。さっさとお前の物にすればいいではないか。マヤさんの身体に興味がないのなら、お前の仕事として抱けばいい」

「お義父さん。お言葉ですが、僕は彼女に手を出す気はありません。紅天女の為に結婚したのです。それに、あの子に僕は憎まれている。いくら戸籍上で夫婦だからと言っても、無理やりに抱くことは出来ませんよ」

真澄は自分のペースを取り戻そうと冷静な表情を作り、落ち着いた声で答えた。

そんな真澄に英介は鼻で笑う。

「何を青臭い事を。お前はパーティーの席で、速水真澄の妻としてマヤさんを紹介しているではないか。そのうち、二人の二世誕生はまだかと報道されるに決まっておる。今のままでは、いつまで経っても跡取りができんわい」

「お義父さんは、そんなことを気にされていたのですか。それなら、僕の時と同じように養子を貰えばいいのではないですか?」

真澄は英介が、すでに次の後継者のことを考えているとは思わなかった。
英介自身が大都の後継者を選ぶ際に、血縁関係を全く無視して真澄を養子にしたのだ。
そんな英介が、後継者に血縁を望むのはおかしな話である。
それに、少なくともマヤに真澄の思いが通じることはない。
真澄の血が繋がった子供など授かることは一生ないのだ。

淡々と他人事のように語る真澄に、英介は怒鳴りつける。

「馬鹿者!! お前のような養子が、そうそう居る訳がない。とにかく、お前には跡継ぎを作ってもらう。まず始めにお前の精子を検査する」

「な、何を馬鹿なことを…」

真澄は、英介の予想外の話に目を見開く。

「健康な精子であれば、普通に夜の生活をおくれば妊娠するだろう。もし精子の検査で異常が見つかれば、治療をしてもらうことになるがな」

「どうして、そんなことまでする必要があるのです?」

真澄は戸惑う気持ちを押し隠しながら、低い声で問いただした。

「お前ほどの男が、まだわからんか? お前は儂の目に適い帝王学を身に付け、政財界の者が一目置くほど頭脳明晰な経営者だ。そして、マヤさんは月影千草が唯一認めた天才女優。その二人の子供に価値がないと思うか?」

「まさか……あなたは…子供にまで商業価値を見出しているのですか?」

「どちらに似ても大都を大きく出来る、守れる存在であることに間違いはなかろう」

「僕は、そんなことをしてまで子供が欲しいとは思いません。子供が不幸になるだけだ!!」

冷静に話を進めるつもりだった真澄だが、英介の言葉に一気に頭に血が上り声を荒げた。
一瞬にして真澄の脳裏に、英介の後継者として生活してきた辛い苦しい日々が蘇る。
――あんな思いをするのは俺一人でたくさんだ
もし、仮にマヤとの間で子供が出来たとしても、無理に後継者として育てたりはしない。


激しい怒りに顔を歪め、拳を強く握り締める真澄に英介は言い渡した。

「お前が何と言おうと検査は受けてもらう。次の日曜日に医師が来る予定になっているからな」

「失礼します!!」

真澄は、これ以上話を続けても無駄だと思い自分から話を打ち切った。
腸が煮えくり返る思いで英介の部屋を出ると、荒々しくドアを閉める。
その日、真澄は自室で苛々を紛らわすように朝方まで酒を飲み続けた。

結局、真澄は日曜日、英介の指示で訪れた医師に精子の検査を無理やり受けさせられたのだった。




英介に呼び出され子供を作るように命令されてからというもの、真澄はマヤを見ると今まで以上に彼女を意識してしまう。
マヤを抱きたくないわけではない。
それどころか一つ屋根の下で暮らすようになってからは、彼女が側に居るだけで理性を総動員しなければいけないほど真澄自身はマヤを求めている。
最近では、いつ彼女を押し倒してもおかしくないくらいに狂気じみているところがあるくらいだ。
そんな時に追い打ちをかけるような英介の話だ。
彼女を抱きたい。
どれだけ愛しているか、彼女の身体に一晩中でも刻み付けたいくらいだ。
狂おしく求めるほどに愛している女なのだから。
それでも、マヤを抱く時は彼女に望まれたものでありたい。
英介が言うように、仕事だと割り切って抱ける女ならどんなにいいかわからない。
だが、真澄はその後もマヤを抱こうとはしなかった。




2007年1月21日



…to be continued







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