「天使の贈り物」 第6話 空虚 あの日、マヤの部屋で話をしてから二人は顔を合わせないようにしていた。 今の状態で顔を合わせたとしても何を話していいかわからず、結局の所、水掛け論で終わるような気がしたからだ。 マヤは真実に触れられるのが、真澄は真実に触れるのが怖かった。 しかし、マヤは妊娠したことで仕事の調整をしなければならない。 それは、大都芸能へ行き真澄に会わなければいけないということだった。 今のドラマ撮影は、あと二ヶ月で終わる。 こちらは、体調が悪いなりにも何とか乗り切れるだろう。 しかし、その後に紅天女の本公演の稽古が始まることになっていた。 妊娠した以上、紅天女の舞台を興行することは出来ない。 延期してもらうしかない。 ただ、その予定を変えることができる権限を握っているのが真澄だった。 契約の際、マヤが真澄に上演権の管理をお願いしたのだから。 マヤが子供を授かったことは、真澄の預かり知らぬことである。 真澄は、とても驚いたと思う。 でも、そうしなければ真澄の側で妻として居ることに耐えられなかったのだ。 意を決したマヤは、大都芸能へ向かった。 ![]() 二週間ほど前から、真澄の様子がおかしかったのを水城は気付いていた。 真澄の元に企画書を持って訪れた社員達に、辺り構わず怒鳴り散らしている。 政略結婚とはいえ、マヤと結婚してからの真澄は穏やかになっていたのだ。 彼女が側に居るだけで、これほど真澄の様子が変わるのかと思うほどに。 それでも水城は、二人がお互いの気持ちを告げずに生活していることに疑問を持っていた。 書類上とはいえ夫婦になり同じ屋根の下で暮らしているのだから、いい加減その思いを伝えることは出来ないのかと。 ただ、長年の間、二人にあった問題がお互いに壁を作っているのは明らかだった。 そして、ここ最近の真澄の異変に原因があるとすればマヤしか考えられない。 この二人に一体何があったのかと思っていた時に、マヤが大都芸能を訪れたのだ。 久しぶりに会社に顔を出したマヤに、水城は優しく声をかけた。 「マヤちゃん。久しぶりね。元気だったかしら?」 「水城さん、お久しぶりです」 マヤは軽く会釈した。 今や日本を代表する女優となり大都芸能社長夫人であるマヤだが、昔と変わらず気取らない態度の彼女に水城は微笑む。 「少し見ない間に、マヤちゃん、雰囲気が変わったわね」 「えっ? そうですか。全然、変わってませんけど」 マヤは不思議そうに自分の姿を眺めながら、首を傾げている。 紅天女の後継者となり女優として輝く彼女は、自分の魅力が全くわかっていない。 未だに舞台を降りれば、冴えない子供っぽい女だと思っているのだろう。 彼女が既婚者でなかったら、世の男性達から山のようなアプローチがきていたに違いない。 なぜなら紅天女の舞台を観た者達は、阿古夜の虜になっているのだから。 それこそ、二人が結婚していなければ、真澄の心中は波風が立ち穏やかでいられなかっただろう。 嫉妬に狂う真澄を見ずに済んだと、心底喜んでいたのは言うまでもない。 社長室の備品が被害に遭わずに済んだのは確かだから…。 「応接室で待っていてくれる? 社長は会議中なのよ」 「はい。わかりました」 マヤは水城に案内され応接室に通されると、来客用のソファに腰を下ろした。 「今、紅茶を用意するわね」 「あっ!水城さん。出来ればレモンティーでお願いできますか?」 水城は、マヤの願いに一瞬訝しげな顔をした。 今までマヤが飲み物に対して希望を言ったことは一度もない。 何でもいいですよと遠慮することがほとんどなのだ。 ――いつもはミルクティーなのに、好みがかわったのかしら? 水城は少し戸惑いながらも普段の表情でマヤに返事した。 「えっ? いいわよ。ちょっと待っていてね」 飲み物を用意した水城は部屋に入ると、マヤの前にレモンティーと彼女の大好きなケーキを並べた。 水城はマヤの前のソファに座り、真澄が帰ってくるまでマヤが退屈しないように世間話でもしようと声をかけた。 「今日は、どうしたの?」 「仕事の調整に来たんです。しばらく休むことになりそうなので」 マヤの言葉に水城は目を開き驚いた。 「えっ、それって? まさか?」 「妊娠しました」 マヤは小さな声で答えた。 水城は驚き戸惑いながらも、二人に子供が出来たことを素直に喜んだ。 「そ、そうなの? マヤちゃん、おめでとう!」 「……ありがとうございます」 水城は、先ほど浮かんだマヤへの疑問が一気に晴れた。 妊娠したら食べ物の好みが変わって酸味の物が欲しくなるのだ。 だからマヤは、レモンティーを頼んだのだろう。 二人が結婚してから、何度かそれとなく探りを入れたことはある。 しかし、真澄の態度は変わることがなかった。 「いつの間に動かれたのかしら…」 首を傾げ、そう呟いたのは一瞬のこと。 水城は何かが引っ掛る。 ―――マヤちゃんが妊娠したのに、どうして真澄様は機嫌が悪いのかしら? 二人の思いが通じ合い結ばれたのであれば、真っ先に喜ぶのは誰でもない真澄のはずだ。 それにマヤが妊娠したのであれば、真澄が自らスケジュールの変更に動くだろう。 それなのに今の真澄は、動くどころか何も言わずに日に日に怒りのオーラを募らせている。 水城の中で得体の知れない不安が頭を過ぎった。 それを彼女は素直にマヤにぶつけてみる。 「マヤちゃん。聞きたいことがあるのだけど?」 「何ですか?」 水城は、マヤを傷つけないように慎重に問いかける。 「あなたのお腹の中にいる子供は、真澄様の子供よね?」 「……………」 いきなり核心を突いてきた水城に、マヤはすぐに答えることが出来ない。 マヤが無言で何も言わないことに、水城は不安を募らせる。 背中に冷たい汗が流れるのがわかった。 「まさか?………マヤちゃん?」 マヤは溜息をつき目を瞑る。 大きく息を吸い込み覚悟を決めると、ゆっくりと話はじめた。 「……水城さんは、鋭いですね。お腹の中の子は……あたしの愛している人の子供です」 「それって、真澄様じゃ…」 マヤは、すぐに水城の言葉を遮る。 「いえ。水城さん。速水さんは、あたしを愛してくれません。だって、私達は紅天女で繋がった夫婦ですから」 「それは違うわ!!」 水城は思わず身を乗り出し叫んでしまう。 いつもの冷静さを失い取り乱していた。 長年、真澄に仕え側で見てきた水城は、真澄にとってマヤがどれだけの存在であるかを最も理解しているのだ。 そんな水城にマヤは軽く首を横に振る。 話の内容とはあまりにもかけ離れた、マヤのとても落ち着いた声が応接室に響く。 「水城さん。いいんです。政略結婚だと分かっていて結婚したのはあたしなんですから。それに、あたしの中には最愛の人の子供が宿っています。あたしは愛されなくても、この子さえ居れば生きていけるから」 マヤは、まだ目立たぬお腹を優しく摩り微笑む。 「どうして、こんなことに……」 水城は目を瞑り、手で額を軽く押さえる。 「あたしが望んだことです。でも、誰にも言わないでくださいね」 「二人で話し合われたの?」 「少し。…でも、これからのことは何も話していません。ただ、あたしの気持ちは伝えました。この子は絶対に産みます!」 マヤの瞳には、誰にも揺るがされないほどの強い決意が込められていることに水城は驚く。 彼女が愛している人は、水城が知る限り真澄以外考えられなかった。 マヤの真澄に対する態度は一目瞭然。 当の本人達が不器用すぎて、相手の気持ちに気が付いていないだけなのだ。 しかし、二人はそれぞれの思いを伝えずに今の関係を続けている。 そして、ここにきてマヤの妊娠をきっかけに二人の関係は危ういものに変わろうとしていた。 水城が知るマヤは、そう簡単に誰でも好きになるような女の子ではない。 純粋で一生懸命な彼女だからこそ、その思いも一途なはずなのだ。 もし、真澄の子供でないとしたら? マヤが他の男と肉体関係になる可能性が一番あるとすれば…。 演劇の世界に入ってから初恋をした彼女の相手、里美茂。 今夏、再会しドラマで共演してはいるが…。 しかし、マヤの芸能界追放をきっかけに引き離された恋は、呆気なく自然消滅しているはずだ。 それに、確か試演の前だろう。 彼女が恋をして、演技が出来ずに苦しんでいたのは。 その頃、里美は日本にいなかった。 やはり、子供の父親が真澄以外に考えられない水城は、どうやってマヤが妊娠したのかを考える。 普通の男女関係で出来たのであれば、真澄にも心当たりはあるはずだ。 だが、それでは今の状況は説明が付かない。 そうなると、この妊娠は誰かの手によって計画されたのではないだろうか? 裏で何かが起こっていると、水城は察知した。 「…そう。マヤちゃんが、そこまで気持ちを固めているなら何も言わないわ。でも、何かあったらいつでも相談してね。私はあなたの味方よ」 「ありがとう。…水城さん」 一人で抱えてきた思いを水城に話せたことで、ほんの少しだけマヤの心は軽くなる。 相談に乗ってくれるという水城の温かい言葉に感謝すると、マヤの瞳にうっすらと涙が浮かんだ。 ![]() 二人が応接室に入ってから30分ほどして、真澄が会議から戻ってきた。 水城とマヤが話を終え応接室から出てきた時、廊下で真澄とバッタリ出会う。 マヤの姿を見た途端、真澄の顔が激しく歪んだ。 水城は社長室のドアを開け、真澄とマヤを部屋へと促す。 二人が入るのを見届けると、水城は静かにドアを閉めた。 真澄は突然、会社に現れたマヤにかなり動揺していた。 何を言い出されるかわからない不安を押し隠す為に、煙草を一本取り出す。 そして、火を点けようとした時に思い出した。 マヤが妊娠している事を…。 真澄は、仕方なく煙草をケースに戻す。 煙草の煙が母胎や胎児に影響を与えることがわかっているだけに、マヤの前で吸うことが出来なかったのだ。 まだ自分の中でほんの少しだけ余裕があり、彼女のことをいたわる考えが浮かんだことにホッとする。 社長室に重苦しい空気が漂う中、真澄が重い口を開いた。 「チビちゃん。何の用だ? わざわざ会社までやって来て」 「速水さん。お忙しいところ、すみません。今のドラマが終わったら、仕事を休業させてください」 速水はマヤからの申し出に息を呑んだ。 「な、なにを…」 「お腹に子供が居るのに、紅天女の稽古や舞台を務めることは出来ません」 マヤは、あの日と変わらず力強い眼差しで真澄を見つめたまま、落ち着いた声で話を続けていく。 真澄はマヤに圧倒されていた。 「俺は……認めていない」 「でも、あたしは産みます。絶対に!!」 マヤの決意が込められた言葉に、真澄は追い詰められていく。 何とか搾り出すように言葉を吐き出した。 「………どうしてだ。この大事な時に……子供を授かるようなことをして……」 「それは、前にもお話したはずです。もう話すことはありません」 毅然と真澄に立ち向かうマヤは、母親となりお腹の子供を守る為に昔の彼女とは比べようもないほどに強くなっていた。 そんなマヤに真澄は、所属事務所の社長として苦言を呈する。 「君は、女優としての自覚が足りなさ過ぎる」 彼の言葉にマヤは、一瞬、唇を噛み締めると皮肉な笑みを浮かべた。 「…そうですね。今のあたしは、あなたからして見れば女優としても、大都芸能の社長夫人としても失格ですよね。…見限られて当然だと思います」 「誰も、そんなことは言っていない!」 社長としての言葉は空回りし、思惑とは違う方向へ話が流れていくことに真澄は苛立つ。 「紅天女のスケジュール調整を出来るのは、速水さんだけです。上演権を持っているのは、あなたなのですから。とにかく、この子を産んで落ち着くまで、あたしは舞台に立つことは出来ません。よろしくお願いします!」 マヤは最後に捲くし立てるように自分の言いたいことを言い切ると、深々と頭を下げ足早に社長室を飛び出した。 「マヤ。待て!!」 真澄の叫び声は、社長室のドアが閉まった音にかき消される。 真澄は、やるせない思いからデスクを激しく叩く。 次にマヤと話をする時は冷静な態度で接しようと思っていたのに、結局、口から出た言葉は彼女を怒らせてしまうだけだった。 昔からそうだ。 彼女を目の前にすると手も足もでなくなる。 大都芸能の仕事の鬼、冷血漢と恐れられた真澄が、たった一人の少女の前では身動きが取れないのだ。 所詮、マヤと結婚できたのは束の間の儚い夢。 愛のない政略結婚。 マヤを守る為だと理由をつけて、彼女を縛り付けたのだ。 その報いを受けるときが来たのかもしれない。 もともと彼女の母親を殺した自分が、マヤと一緒になれるわけがなかったのだから。 心の拠り所だったマヤを近い未来に失う予感から逃れることが出来ない。 真澄はマヤが飛び出した後、微動だにせず虚ろな表情で天井を眺めていた。 2007年 2月14日 |
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