「天使の贈り物」 第7話 嫉妬 真澄は発覚したあの日から、考えないようにしていた。 いや、マヤが妊娠した事実に向き合う勇気がなかったのだ。 しかし、先日、再びマヤと顔を合わせたことで、嫌でも考えなければいけなくなった。 社長として、夫として、一人の男として。 マヤのことを考える時には必ず訪れていた、伊豆にある別荘の自室に真澄はいた。 冷静に考えるには、一番落ち着ける場所だ。 マヤから貰った舞台写真が収められたアルバム。 一枚、一枚、眺めるたびに、その時の感動が甦ってくる。 虹の世界で活き活きと輝くマヤに、何度心を奪われたことだろう…。 結婚して自分の手の内にいると思っていた彼女は、他の男の手に落ちていた。 社長室でマヤから一方的に話を押し付けられた挙句、打ち切られた真澄だったが納得したわけではない。 社長として、まずしなければいけないことは、今後のマヤのスケジュールの変更だ。 このまま何もしなければ主演女優の降板となり、紅天女の稽古、舞台に大きな影響を及ぼす。 人気女優であるマヤに仕事のオファーは山のようにきているが、これら全ても断るしかないだろう。 夫として、妻が浮気をしたことになるのだろうか? 妻と言っても書類上で、お互いに政略結婚だと了承した上でのこと。 何も言える立場ではないような気がする。 一人の男としては…。 少女の頃から見守ってきたマヤだ。 憎まれているとわかっていても、自分の手で守ってやりたい、出来ることなら幸せにしてやりたい、と願っていた。 見知らぬ相手にマヤを奪われたまま引き下がることなど、真澄には到底出来ない。 しかし、頑固なマヤの口から名前を吐かせるのは困難だろう。 何とかして相手を見つけ出したい真澄は、聖を頼ることにした。 ![]() 真澄から話を聞かされた聖は驚き、すぐに他の調査を中断した。 そして、彼の切実な依頼を優先し、探し出すことを約束する。 真澄と結婚してからマヤが接触した人物を全て洗い出し、どんな小さな接点も見逃さないようにと。 紅天女の共演者である桜小路をはじめ、その他出演者への調査は、かなりの時間を要することになった。 しかし、稽古、舞台の後にマヤが食事や飲み会に出かけた相手は、いつも数人のグループで、個人で出かけた形跡はまったく見当たらない。 また、周囲の関係者からの情報でも、彼女が個人的に付き合っている男性の名前などでてこなかった。 昔から、真澄の心を煩わせていた桜小路とでさえ、マヤは二人きりで出かけるような行動を取っていない。 マヤは真澄の妻であると自覚して振舞っているようだった。 だから、聖にはわからなかった。 なぜ、このような事態になってしまったのか。 好きな人がいるのに真澄と結婚したマヤ。 紅天女の上演権を持つマヤが大都を選ばなければ彼女を潰すと英介が宣言したことにより、マヤを守る為に真澄が政略結婚を持ちかけたわけだが、昔の彼女なら断っていたはずだ。 しかし、彼女は素直に応じた。 そして、半年たった今、マヤのお腹の中には彼女が愛する男の子供がいるという。 真澄の地位や名誉を気にして、スキャンダルにならないよう細心に気を配っていた彼女が、自らスキャンダルのネタを抱えているのだ。 真澄が最近、一番危惧していた相手は、里美茂だった。 マヤは今も、妊娠を隠したまま撮影を続けている。 勿論、聖は、真っ先に里美とマヤの関係を調べるように真澄から指示された。 また、ドラマ撮影中の二人の様子も事細かに報告するようにと。 現場に顔を出すわけには行かず関係者を雇い詳細を得ているが、何ら不審な点はない。 むしろ、共演者として、お互いの演技に対して意見をぶつけ合い、ドラマの成功に力を注いでいる。 もし、マヤの子供の父親が里美であれば、彼女から妊娠の報告は受けているだろうし、身体を気遣う素振りを見せるはずだ。 しかし、里美が彼女の妊娠を知っている様子は全くない。 聖が調べた限り、マヤの妊娠を知っているのは真澄、秘書の水城のみ。 マヤが姉のように慕っている青木麗にさえ、彼女は知らせていなかった。 それなのに、マヤの素行を調べていく中で、意外な人物が浮かび上がってきたのだ。 今やマヤは、国民的女優である。 舞台を降りれば目立たない彼女は、街中を歩いていても気付かれることはない。 しかし、病院に行けば名前が残るのだから、簡単に産婦人科に通うことは出来なかったはずなのだが…。 マヤが妊娠後、通っている病院は英介の主治医がいる大学病院。 相手を見つける前に現れた自分のもう一人の主の存在に、聖は衝撃を覚えた。 この大学病院は、英介が多額の寄付をしており融通が利く。 マヤの妊娠が世間に発覚していないのは、影で英介が口止めをしているからだ。 なぜ、英介がマヤを助けているのだろうか? 少なくとも英介は、真澄とマヤの結婚を認めていなかった。 紅天女の獲得と引き換えに、ほとんど強引に真澄が押し切ったのだ。 上流階級との繋がりを求め鷹宮との縁談に執着していた英介だったが、二人の結婚後は沈黙を保っている。 だからこそ、英介とマヤの繋がりが見えてこない。 いつの間に接点を持ったのだろう。 病院で調べた所、彼女は、もうすぐ妊娠4ヶ月目に入ろうとしている。 あの英介が真実を知らず、マヤを助けることはないはずだ。 この妊娠に英介も関わっているのか、今の時点ではわからない。 ただ、わかっていることは、ここから先を調べるには相手が悪すぎる。 簡単にボロを出すはずはないのだから。 真澄と英介の確執を知っている聖にとって、この事実を真澄に打ち明けていいものか迷っていた。 ![]() 妊娠するという事態になっているにも関わらず、彼女の周りから怪しい男の影はひとつも見つからない。 結局、聖の調査でもマヤの相手を見つけだすことは出来なかったのだ。 調査報告書を見た真澄は、怒りを露にした。 「なぜだ! お前が捜してもわからないのか?」 「申し訳ありません。真澄様の指示通り、マヤ様に関わった人間をすべて調べましたが、そのような行動をされた相手は、ひとりも見つかりませんでした」 聖は小さく頭を下げ、目を伏せた。 真澄は聖ほどの男でも探し出せない相手に、手に持っていた報告書を捻り潰すと苛立ちからリビングのテーブルを激しく叩き投げ捨てた。 「そんなはずは無い! 現にマヤは妊娠しているんだぞ!!」 「……」 「一体、どこのどいつだ? 俺の…俺のマヤを…」 真澄は鋭い眼光で部屋の一点を見つめたまま、ギュッと手を握り締めている。 マヤを奪われた事実に耐えるように、手の色が白く変わるほど。 「……聖。俺は…どうすればいい?」 「…真澄様」 行き場のない思いを抱え縋るような目で真澄に見つめられた聖は、なんと答えればいいかわからなかった。 「俺は気が狂いそうだ。今すぐにでも彼女の全てを俺のものにしたい! 誰にも触れさせないように閉じ込めてしまいたい!!」 「落ち着いてください、真澄様」 胸に抱えた激しい思いを口に出し、今にも暴走しかねない真澄を聖は宥めようとする。 「これが落ち着くことが出来るのか? 確かに政略結婚だった。マヤが俺を愛していないのもわかっている。それでも俺は、マヤを側に置いておきたかった。他の男に触れさせたくなかった。それなのに……」 真澄は口惜しさに唇を噛み締めた。 「ですが、真澄様。マヤ様は、政略とはいえ素直に結婚を承諾してくださったではありませんか? 昔のマヤ様なら、真澄様の意見など全く聞く耳を持たれませんでした。嫌なものは嫌だとハッキリ主張されていましたよ」 「……そうだな。あの頃が懐かしいよ。面と向かってなんでもズバズバと思ったことを口にしてくれていたからな。それが今はどうだ? 彼女は大人になって、本当のことは何も言わない。マヤが何を考えているのか全くわからない」 真澄は両手を広げ、お手上げだと天井を見上げる。 「……」 真澄の翳りを落とした寂しそうな瞳。 どれだけマヤのことで心を痛めているのかがわかる。 そんな真澄を見ているのが辛くて、言葉をかけることも出来なくて、聖は目を逸らした。 「俺は、何処の誰ともわからない奴に、このままマヤを奪われていくのか……。そんなことをされるぐらいなら、俺がマヤを奪う!!」 真澄は立ち上がると、カウンターに置いてある車のキーを握り締めた。 真澄の眼光は鋭く、獲物を狙い射すくめようとしているのが窺えた。 今すぐ彼女を奪いに行こうとしている真澄を聖は手を広げ体を張って止める。 「真澄様。それはいけません。マヤ様のお腹の中には子供がいるのです。無体なことをされては、お腹の子は勿論、まだ安定期ではないマヤ様の身体も無事ではすみません」 マヤの身体のことを言われた真澄は、足を止めると激しく顔を歪めた。 「では、どうしろというんだ? 俺に、このまま指を咥えて見ていろと言うのか?」 「いえ。…まだ、手がかりがないわけではありません。もう少しだけお時間をいただけないでしょうか?」 「手がかり?」 真澄は訝しげに聖を見る。 「はい。今は、まだ申し上げられません。推測の段階ですので、証拠を掴み次第ご連絡いたします」 英介の存在を口に出すことは出来なかった。 それに、今の真澄に英介の名前を出せば、間違いなくここを飛び出すだろう。 屋敷にいる主に殴りかかる勢いで、問い詰めるに違いない。 しかし、それで英介が口を割るとは思わない。 ますます仲違いするだけだ。 聖の言葉に真澄は溜息をついた。 真澄の長年の思いを知っている忠実な部下が、嘘をつくとは思えない。 マヤへの望みをかろうじて繋ごうと、聖は無理をしているのではないだろうか? ただ、自分の我侭で彼を振り回している情けない自身に嫌気がさした。 「もう、マヤは俺の手を必要としないんじゃないのか? 紫の薔薇の人としても…速水真澄としても…」 真澄は虚ろな表情で聖に問いかける。 「真澄様。投げやりにならないでください。私が必ず、相手を見つけ出してみせます」 「悪いな。聖。……疲れた。一人にしてくれないか」 真澄は俯くと両手で顔を覆った。 「…真澄様」 聖は、真澄の意を酌み取り静かに頭を下げると、別荘を後にした。 長年、真澄に仕えてきた聖にとって、嫉妬に狂う彼を見るのは耐えられなかったのだ。 一刻も早く相手を見つけ出さなければ。 真澄の心が崩壊する前に。 ![]() 真澄は、いつの頃からかマヤを欲するあまり、彼女を抱く夢を度々見るようになっていた。 透き通るような白い肌に無数の口付けを落とし、全身の隅々まで愛撫を施す。 甘い声を洩らす彼女に満足気に微笑むと、真澄は自分自身の昂ぶりで愛する女を貫くのだ。 彼女を愛していると自覚した数年前から、何度もマヤを組み敷く夢を見たことがある。 しかし、結婚してからは、彼女の裸体が鮮明に浮かぶようになっていた。 それは、真澄の想像の範囲でしかなく願望が作り出したに過ぎない。 それでも、真澄は手に入れることが出来ない、愛する女を求めて、空想の世界で溺れている。 聖が帰った後、真澄は自室で酒を煽っていた。 こうして毎晩、酒に逃げるようになって3ヶ月。 どれだけ飲んだところで酔うことはない。 いや、最初の頃は悪酔いしていた。 もともと酒に強い方だったが、あの頃は記憶が無くなるほど飲んでいたのだ。 マヤを奪われる不安から逃れたくて…。 アルコールが回りはじめ次第に火照った身体を抑えきれなくなり、真澄はバルコニーに出て夜風に当たった。 初夏とはいえ、夜になれば海から吹く潮風は冷たい。 心と共に荒れ狂う熱が逃げるよう、伊豆の海から吹き込む風を全身で受け止める。 今、こうしている間にも、マヤは他の男の手によって快楽へと導かれているのではないだろうか? そんな思いが、さらに真澄の嫉妬心を煽る。 マヤのことを考えただけで、一点に集る身を焦がしそうなほどの激しい熱。 ここでは誰にも邪魔されることはないが、その熱を逃す別の方法は今の自分をますます惨めにさせるだけだ。 漆黒の海を眺めながら真澄は、夜毎に出会う彼女を思い浮かべ報われない恋に縛られたままの自分に苦笑する。 どんな形であれ、いつか解放される日が来るのだろうか? それとも、一生、この苦しい思いを抱えて生きていくのだろうか? 狂いそうなほど抱えきれない熱い思いを胸に閉じ込めたまま。 真澄は手摺をギュッと握り締め、果てしなく広がる海の前で無力な自分を曝け出す。 「…マヤ。愛してるんだ。…俺から離れないでくれ」 決して届くことがない思いを口にした。 それは、マヤと出会った日から、勇気がなくて一度も伝えたことがない言葉。 人前で弱い速水真澄を見せることはできない。 だから、伊豆の海深く底に沈むように何度も吐き出す。 真澄の諦めきれない思いは、闇夜の海に消えていった。 2007年 3月7日 |
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